さるほどに成田五郎も出で来たる。土肥の次郎実平七千余騎、色々の旗差し上げ、喚き叫んで攻め戦ふ。追ほ手生田の森をば、源氏五万余騎で固めたりけるが、その勢の中に、武蔵の国の住人、河原太郎、河原次郎とて兄弟あり。河原太郎、弟の次郎を呼うで言ひけるは、「大名は我と手を下ろさねども、家人の高名をもつて名誉す。我らは自ら手を下ろさでは叶ひ難し。敵を前に置きながら、矢一つをだに射ずして待ち居たれば、余りに心許なきに、高直は城の内へ紛れ入つて、一矢射んと思ふなり。されば千万が一も、生きて帰らんことあり難し。汝は残り留まつて、後の証人に立て」と言ひければ、弟の次郎、涙をはらはらと流いて、「ただ兄弟二人ある者が、兄討たせて、弟が後に残り留まつたればとて、幾程の栄華をか保つべき。所々で討たれんより、一所でこそ討ち死にをもせめ」とて、下人ども呼び寄せ、妻子の許へ、最期の有様言ひ遣はし、馬には乗らで下々を履き、弓杖を突いて、生田の森の逆茂木を上り越えて、城の内へぞ入つたりける。
やがて成田五郎もやって来ました。土肥次郎実平(土肥実平)は七千騎余りで、色々の旗を差し上げ、喚き叫んで攻め戦いました。追手は生田森(兵庫県神戸市生田区)を、源氏五万騎余りで固めていましたが、その勢の中に、武蔵国の住人、河原太郎(河原高直)、河原次郎(河原盛直)という兄弟がいました。河野太郎(高直)は、弟の次郎(盛直)を呼んで言うには、「大名は自ら手を下さなくとも、家人([家来])の高名を名誉とする。我らは自ら手柄を上げなければ仕方ない。敵を前にして、矢の一つも射ずに待つだけでは、余りに残念だ、わし高直は城の中へ入って、一矢も射ようと思うのだ。なれば千万が一つも、生きて帰ることはないであろう。お前はここに残って、後に証人となってくれ」と言うと、弟の次郎(盛直)は、涙をとめどなく流して、「たった二人の兄弟です、兄を討たせて、弟が残ったところで、どれほどの栄華があるというのです。別々に討たれるより、一所で討ち死にしましょう」と言って、下人たちを呼び寄せ、妻子の許へ、最期の様子を伝言し、馬には乗らず下々([わら草履])を履き、弓を杖に突いて、生田森の逆茂木([敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵])を上り越えて、城の中に入って行きました。
(続く)