越中の前司も、一目にはに三十人が力顕すと言へども、内々は六七十人して上げ下ろす船を、ただ一人して押し上げ押し下すほどの大力なり。されば猪俣を捕つて抑へて働かさず、猪俣下に伏しながら、刀を抜かうどすれども、指の股開かつて、刀の柄を握るにも及ばず、物を言はうどすれども、余りに強う抑へられて声も出でず。されども猪俣は大剛の者にてありければ、しばしの息を休めて、「敵の首を捕ると言ふは、我も名乗つて聞かせ、敵にも名乗らせて、首捕つたればこそ大功なれ。名も知らぬ首捕つて、何にかはし給ふべき」と言ひければ、越中の前司げにもとや思ひけん、「本は平家の一門たりしが、身不肖なるによつて、当時は侍になされたる越中の前司盛俊と言ふ者なり。和君は何者ぞ。名乗れ、聞かう」ど言ひければ、「武蔵の国の住人、猪俣の小平六則綱と言ふ者なり。ただ今我が命助けさせおはしませ。さだにも候はば、御辺の一門、何十人もおはせよ、今度の勲功の賞に申し代へて、御命ばかりをば助け奉らん」と言ひければ、越中の前司大きに怒つて、「盛俊身不肖なれども、さすが平家の一門なり。盛俊源氏を頼まうども思ひもよらず。源氏また盛俊に頼まれうども、よも思ひ給はじ。憎い君が申し様かな」とて、すでに首を掻かんとしければ、「正なう候ふ。降人の首かく様やある」と言ひければ、「さらば助けん」とて赦しけり。前は堅田の畑の様なるが、後ろは水田の塵深かりける畔の上に、二人ながら腰うち掛けて、息継ぎ居たり。
越中前司(平盛俊)も、一目見て三十人力に見えましたが、実は六七十人で上げ下ろす船を、たった一人で押し上げするほとの大力の者でした。なので猪俣(則綱)を捕えると動けないようにしました、猪俣(則綱)は下に伏せられながらも、刀を抜こうとしましたが、指が開いていたので、刀の柄を握ることができず、何か言おうとしましたが、あまりに強く押さえつけられていたので声も出せませんでした。けれども猪俣(則綱)は大剛([とても強い者])の者でしたので、しばらく息を整えて、「敵の首を捕る時は、自ら名乗って聞かせ、敵にも名乗らせて、首を捕ってこそ大功([大きな手柄・功績])ではないか。名も知らぬ敵の首を捕っても、仕方ないことだ」と言うと、越中前司(平盛俊)もなるほどと思い、「わしはもとは平家の一門であったが、身不肖([愚か者])故に、今は侍となった越中前司盛俊と言う者だ。お主は何者ぞ。名乗れ、聞いてやろう」と言いました、猪俣(則綱)は「わたしは武蔵国の住人で、猪俣小平六則綱と言う者です。わたしの命を助けてください。もし助けてもらえたら、あなたの一門が、何十人おられようとも、今度の勲功([国家や君主に尽くした功績])の賞([褒美])に代えて、命ばかりは助けましょう」と言うと、越中前司(平盛俊)はたいそう怒って、「わし盛俊は愚か者ではあるが、それでも平家の一門である。わしが源氏に命を助けてもらおうなどとは思いもよらぬこと。源氏もまたわし盛俊を当てにすることなど、まさか思わないはず。憎むべき敵が申すべきではない」と言って、猪俣(則綱)の首を捕ろうとすると、猪俣(則綱)は「確かにその通りです。けれど降人([降参した者])の首を捕ってよいものでしょうか」」と言ったので、盛俊は「降参したなら助けよう」と言って猪俣(則綱)を助けました。前は堅田([水が乾いて土のかたくなった田])の畑のようでしたが、後ろは水田の塵([水底にたまった泥状のもの])深い畔([水田と水田との間に土を盛り上げてつくった小さな堤])の上に、二人腰をかけて、息を休ませていました。
(続く)