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「増鏡」藤衣(その6)

同じき三年七月五日、関白をば御太郎教実のりざね大臣おとどゆづり聞こえ給ひて、我が御身は大殿おほとのとて、きさいの宮の御親なれば、思ひなしもやんごとなきに、御子どもさへいみじう栄え給ふ様、ためしなきほどなり。あづまの将軍、山の座主、三井寺みゐでらの長吏、山階寺やましなでらの別当、仁和寺にんわじ御室おむろ、皆この殿の君達きんだちにておはすれば、すべて、天下はさながら交じる人少なう見えたり。いとよそほしく重々しげにて、内の御宿直所とのゐどころなどに、常はうち解けさぶらひ給へば、関白殿、次々の御子どもも大臣などにて、立ち変はり御前に絶えず物し給ひて、世のまつりごとなど聞こえ給ふ。北の方は公経きんつねの大臣の御娘なれば、増して世の重く靡き奉る様、いとやんごとなし。




同じ寛喜くわんぎ三年(1231)の七月五日、九条道家みちいへ殿は関白を長男の教実大臣(九条教実)に譲られて、道家殿自身は大殿となられて、后宮(藤原竴子しゆんし=九条竴子)の父親でございますれば、世の覚えも並大抵のものではございませんでしたが、子どもたちもたいそう栄えられたので、例のないほどでございました。東の将軍(鎌倉幕府第四代将軍。藤原頼経よりつね)、山の座主(天台座主。慈源じげん)、三井寺の長吏(現滋賀県大津市にある寺の長。道智だうち)、山階寺の別当(現奈良県奈良市にある興福寺別当。円実ゑんじつ/rt>)、仁和寺の御室(非皇族で初めての仁和寺門跡。法助rt>ほうじよ)は、皆この道家殿の君達([摂関家・清華家などの子弟・子女])でしたので、何にせよ、天下にこの一門以外の人たちは少ないほどに思われました。たいそう衣装は厳めしく、内裏の宿直所([警衛守護や遊びのために、内裏で宿泊するとき用いる部屋])などで、いつもくつろいでおいででございましたが、関白殿(九条道家)の、お子たちも大臣でございますれば(長男九条教実のりざねは摂政関白左大臣、次男二条良実よしざねは関白左大臣、四男一条実経さねつねは摂政関白左大臣)、立ち変わり御前に参られて、政治のことなどを話されておられました。北の方は公経(西園寺公経)の娘(西園寺綸子(西園寺公経の娘)でございますれば、とりわけ時代の重鎮でございました、まことりっぱなお方でございました。


続く


by santalab | 2013-11-26 08:08 | 増鏡

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