その時義朝を御前に召さる。赤地の錦の直垂に折烏帽子引き立て、脇立ばかりに太刀帯したり。少納言入道をもつて戦の様を召し問はる。義朝畏つて申しけるは、「合戦の手だて様々に候へども、即時に敵を虐たげ、たちどころに利を得る事、夜討ちに過ぎたる事候はず。なかんづく南都より衆徒大勢にて、吉野・十津川の者ども召し具して、千余騎にて今夜宇治に着く。明朝入洛仕る由聞こえ候ふ。敵に勢の付かぬ先に押し寄せ候はん。内裏をば清盛などに守護せさせられ候へ。義朝は罷り向かつて、たちまちに勝負を決し候はん」とぞ進みける。
その頃後白河天皇は義朝(源義朝)を御前に呼びました。赤地の錦織の直垂に折烏帽子(折烏帽子は武士のシンボルだったらしい)をかぶって、脇立([左右に控える者])だけが太刀を身に着けていました。少納言入道(信西)が戦法を訊ねました。義朝がかしこまって申すには、「合戦の方法はいくらもありますが、あっという間に敵を打ち負かし、たちまち勝利するには、夜討ちに優るものはありません。その上奈良より衆徒([僧兵])が大勢で、吉野・十津川の者を従えて、千騎余りで今夜宇治(今の京都府宇治市)に着きます。明朝京に入るとのことです。敵に勢が付かないうちに攻めるのがよいでしょう。内裏は清盛(平清盛)などに守らせればよろしい。わたしは敵地に向かって、たちまち勝ってみせましょう」と進言しました。
(続く)