さるほどに下野しもつけの守義朝は、二条を東へ発向す。安芸守清盛も、同じく続ひて寄せけるが、明れば十一日、東塞がりなる上、朝日に向つて弓引かん事恐れありとて、三条へ打ち下り、河原を馳せ渡して、東の堤を北へ向かつてぞ歩ませける。下野守は、大炊御門河原に、前に馬の駆け場を残して、川より西に、東頭に控へたり。
その頃下野守義朝(源義朝。頼朝、義経の父)は、二条を東へ向かいました。安芸守清盛(平清盛)も、同じく続いて白河殿(崇徳院御所)を攻めようとしていましたが、翌十一日は、東塞がり([陰陽道で、東に向かって行動することが忌まれる状態にあること])である上、朝日に向かって弓を引くのは恐れ([よくないことが起こるかもしれないという心配])があるということで、三条に下り、三条河原(加茂川)を渡って、東の堤を北に向かって馬を進めました。義朝は、大炊御門河原(二条)に、前方に馬の駆け場を残して、加茂川より西に、東を向いて控えました。
(続く)