昔、朱雀院の御宇、承平年中に、平の将門八箇国を打なびかして、下総の国相馬の郡に都を建てて、我身を平新王と号し、百官をなし、諸司を召し仕ひけるが、あまつさへ都へ攻め上り、朝家を傾け奉らんとする由聞こえければ、防戦に力尽き、追討に謀なし。よつて仏神の擁護を頼みて、諸寺諸社に仰せて、冥鑑の政をぞ仰がれける。殊に山門すべてその精誠を抽んでけり。その時の天台座主尊意僧正は、不動の法を修せられけるに、将門、弓箭を帯して壇上に現じけるが、程なく討たれけるなり。権僧正はその勧賞とぞ聞こえし。惣持院をば、鎮護国家の道場と号して、不退に天下の護持を致す。されば、今も法験なんぞ昔に変はるべきとぞ思ゆる。
昔、朱雀天皇の御時(930~946)、承平の時代に、平将門が東国八ヶ国を従えて、下総国相馬郡(今の福島県相馬市)に都を建てて、将門自身を平新王と呼び、百官([多くの役人])を置き、諸司([多くの役所])を召し仕えさせて、さらには都へ攻め上り、朝家([国])を転覆するとの噂がありましたが、朝廷は防戦に力尽き、追討の手段もありませんでした。そこで仏神の擁護に頼って、諸寺諸社に命じて、冥鑑([人々の知らないところで、神仏が衆生を見守っていること])に救いを求めました。とりわけ山門([比叡山])は精誠([まじりけのないまごころ])優れていました。その時の天台座主尊意僧正は、不動の法([不動明王を本尊として、除病、延命のために行う修法])を習得していました、将門は、弓矢を身につけて壇上(朝廷から召喚されたことか。この時は、朱雀天皇元服の大赦により、罪を免れた)に現れましたが、ほどなくして討たれてしまいました。権僧正を賜わったのはその勧賞([褒美などを与えて励ますこと])と言われました。惣持院(比叡山にある寺。東塔)を、鎮護国家の道場と呼んで、不退([退くことなくいつも修行すること])に天下を守護しました。ならば、今の世も法験([仏法の霊験])は昔と何ら変わらないと思われました。
(続く)