乙若これを見給ひて、少しも騒がず、「美しうも仕りつるものなり。我をもさこそ斬らんずらめ。さてあれはいかに」とのたまへば、外居を持たせて参りたり。手づからこの首どもの血の付きたるを押し拭ひ、髪掻き撫で、「あはれ無慙の者どもや。かほどに果報少なく生まれけん。ただ今死ぬる命より、母御前の聞こし召し嘆き給はんその事を、かねて思ふぞ譬へなき。乙若は命を惜しみてや、後に斬られけると人言はんずらん、まつたくその義にてはなし。かやうの事を言はんに付けても、またわが斬らるるを見んに付けても、留まりたる幼き者の、また泣かんも心苦しくて言はぬなり。母御前の今朝八幡へ詣で給ふに、我も参らんと申せば、皆参らんと言へば、具せば皆こそ具せめ、具せずは一人も具せじ、片恨みにとて、我らが寝入たる間に詣で給ひしが、今は下向にてこそ尋ね給ふらめ。我らかかるべしとも知らざりしかば、思ふ事をも申し置かず、形見をも参らせず、ただ入道殿の呼び給ふと聞きつるうれしさに、急ぎ輿に乗つる計りなり。さればこれを形見に奉れ」とて、弟どもの額髪を切りつつ、我が髪をも取り具して、もし違ひもやするとて、別々に包み分け、各々その名を書き付けて、波多野次郎に賜びにけり。「また詞にて申さんずる様よな。今朝御供に参りなば、終には斬られ候ふとも、最後の有様をば、互ひに見もし見え参らせ候はんずれども、中々互ひに心苦しき方も侍らむ。御留主に別れ奉るも、一の幸ひにてこそ侍れ。この十年余りの間は、仮初めに立ち離れ参らする事も侍らぬに、最後の時しも御見参に入らねば、さぞ御心にかかりはべるらふらめなれども、かつは八幡の御計らひかと思し召して、いたくな嘆かせおはしまし候ひそ。親子は一世の契りと申せども、来世は必ず一つ蓮に参り会やうに御念仏候ふべし」とて、「今はこれらが待ち遠くなるらん、疾く疾く」とて、三人の死骸の中へ分け入りて、西に向かひ念仏三十遍計りぞ申されければ、首は前へぞ落ちにける。四人の乳母ども急ぎ走り寄り、首もなき身を抱きつつ、天に仰ぎ地に伏して、喚き叫ぶも理なり。まことに涙と血と相ひ和して、流るるを見る悲しみなり。
乙若はこれを見て、少しも騒ぐことなく、「りっぱな最期であった。わたしもこのように斬られようぞ。まずはこの子たちの首をなんとかしなくては」と言って、外居([食べ物を入れて運ぶ器])を持ってきました。自らの手で首に血の付いたのを拭って、髪を掻き撫で、「ああかわいそうな者たちよ。これほど果報([前世での行いの結果として現世で受ける報い])少なく生まれてきたのだろうか。それよりももうすぐ死ぬ命より、母がこのことを聞いて嘆き悲しむであろうことを、思えば何と言えばよいのだろう。わたしが命を惜しんで、後に斬られたと人が言うかもしれないが、まったくそんな気持ちはない。わたしを先にと言えば、またわたしが斬られるのを見て、後に残る幼いお前たちが、泣くのが心苦しかったからだ。母が今朝石清水八幡(今の京都府八幡市にある神社)へ詣でるというので、わたしも一緒に参りたいと言えば、皆も参りたいと言ったので、連れていくなら皆連れていきましょう、連れていかないのならば一人も連れていきません、片恨み([一方だけが恨みに思うこと])になりますからと言って、わたしたちが寝ている間に出かけて行きましたが、今は参詣から戻る途中だろう。わたしたちがこんなことになったと知って、思う事も言い残さず、形見もなく、ただ入道殿(父源為義)が呼んでいると聞いてうれしくて、急ぎ輿に乗ったのだと思うことだろう。ならばこれを形見にしてほしい」と言って、弟たちの額の髪を切り、自分の髪も切って、間違えるかもと、別々に包み分けて、それぞれに名前を書き付けて、波多野延景に渡しました。「また言葉にて申し置こう。今朝母の供に参りませんでしが、ついに斬られることになって、最期の有様を、互いに見ること叶わず、とても心苦しく思っています。母の留守にお別れするのが、一番の幸せかもしれません。この十年余りの間、少しの間も離れることはありませんでした、最後の時に限って見ることができないのは、さぞ心残りのあることでしょうが、これも八幡の決めたことだと思って、ひどく嘆かないようにしてください。親子は一代の契りといいますが、来世は必ず一蓮([極楽の同じ蓮華の上に生まれること])に生まれて再会できますようにと念仏なさってくださいと伝えよ」と言って、「今は弟たちに再び会うことが待ち遠しくて仕方ない、早くわたしを斬りなさい」と言って、三人の死骸の中に分け入って、西に向かい念仏を三十回ばかり唱えていると、首は前に落ちました。四人の乳母たちは急いで走り寄って、首のない身を抱いて、天を仰ぎ地に伏して、喚き叫ぶのも当然のことでした。涙と血が混じって、流れる様は悲しいものでした。
(続く)