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「保元物語」新院御経沈めの事付けたり崩御の事(その6)

治承ぢしよう元年六月二十九日、追号ありて崇徳院とぞ申しける。かやうになだめ参らせられけれども、なほ御憤り散らぜざりけるにや、同じ三年十一月十四日に、清盛、朝家を怨み奉り、太上天皇を鳥羽の離宮に押し籠め奉り、太政大臣以下四十三人の官職をとどめ、関白殿を太宰権帥に移し参らす。これただ事にあらず、崇徳院の御祟りとぞ申しける。




治承元年(1177)六月二十九日に、追号([贈り名])あって崇徳院と呼ばれました。このように祟りを鎮めようとしましたが、なお憤りが治まらなかったのでしょうか、同じ三年(1179)十一月十四日に、清盛(平清盛)が、朝廷を恨んで、太上天皇(後白河天皇。治承三年時の天皇は高倉天皇で後白河院でした)を鳥羽殿に幽閉し、太政大臣以下(治承三年には太政大臣はいない)四十三人の官職を剥奪し、関白殿(藤原基房もとふさ=松殿基房。「保元物語」の関白殿藤原忠通ただみちの次男)を大宰権帥に左遷しました。これはただ事ではなく、崇徳院の祟りと言われました。


(清盛が朝家を恨み、後白河院を鳥羽殿に幽閉するくだりは、『平家物語』に詳しく書かれています。そして、崇徳院は、讃岐で没しますが、金刀比羅宮=金毘羅神社の祭神となっています。金毘羅神社は、石清水八幡と同じく元は大権現=仏神を祀っていましたが、今は神社です。なので、金毘羅神社は寺院のたたずまいなのです。)


続く


by santalab | 2013-11-29 10:08 | 保元物語

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