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「神皇正統記」人(二条天皇の3)

義朝よしとも重代のつはものたりしうへ保元ほうげんの勲功捨てられ難く侍りししに、父の首を斬らせたりしことおほきなるとがなり。古今にも聞かず、和漢にもためしなし。勲功にまをし替ふともみづから退くとも、などか父を申し助くる道なかるべき。名行めいかうかけ果てにければ、いかでかつひにその身をまたくすべき。滅することは天のことわりなり。およそかかることはその身の咎はさることにて、朝家てうかの御誤りなり。よく案あるべかりけることにこそ。その頃名臣も数多あまたありしにや、また通憲みちのり法師もはら申し行ひしに、などか諌め申さざりける。大儀にしんを滅すると云ふことのあるは、石碏せきしゃくと云ふ人その子を殺したりしがことなり。父として不忠の子を殺すことはことわりなり。父不忠なりとも子として殺せと云ふ道理なし。孟子に例へ取つて云へるに、「しゆんの天子たりし時、その父瞽叟こそう人を殺すことあらんを、時の大理なりし皐陶かうえう捕らへたらば舜はいかがし給ふべきと云ひけるを、舜は位を捨てて父を負ひて去らまし」とあり。大賢のをしへならば忠孝の道顕はれておもしろく侍り。保元・平治へいぢよりこの方、天下乱れて、武用盛りに王位かろくなりぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行の破れ初めしによれることとぞ見えたる。




義朝 (源義朝)は代々武士であった上、保元の乱 (1156)での勲功も大したものでしたが、父(源為義ためよし)の首を斬らせたのは大きな罪でした。古今にも聞かず、和漢(日本と中国)にも例のないことでした。勲功に替えても勲功を辞退してでも、どうして父を助けようとしなかったのでしょうか。名行(名誉となる行為?)に替えて父を助けていたならばどうして命を無駄にすることがあったでしょうか。義朝が命を落としたのも道理でした。義朝に罪があることにしても、死罪を行ったのは朝家(朝廷)の誤りでした。よくよく考えてなすべきことでした。その頃名臣も数多くいましたが、通憲法師( 信西しんぜい)がすべて一人できめたことに、どうして諫言しなかったのでしょう。「大儀親を滅す」(『春秋左伝』)という言葉があります。石碏という人が我が子(石厚せきこう)を殺したことをいいます(石厚は衛の桓公かんこうの弟である州吁しううに謀反を勧めたらしい)。父として不忠の子を殺すことは道理です。父が不忠だからといって子が父を殺せということがあってよいものでしょうか。孟子の言葉(『桃應問曰』)を借りれば、「舜(中国神話に登場する君主)が天子であった時、舜の父瞽叟がもし人を殺し、時の大理([検非違使別当の唐名])である皐陶が瞽叟を捕らえたら舜はどうするかと桃応(孟子の門人らしい)に問われて、わたし(舜)は帝位を捨てて父を背負い都を去ろう」と答えたということです。大賢の教えに忠孝の道が示されていることは興味深いことです。保元(保元の乱(1156))・平治(平治の乱(1159))より以降、天下は乱れて、武用は栄え王位(帝位)は軽くなりました。太平の世に戻らないのは、名行を果たそうとしなかったことから始まりのように思えます。


続く


by santalab | 2013-12-09 09:22 | 神皇正統記

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