「日来はいかなる人も、あの人々の目にも見え、言葉の末にも掛からばやとこそ思ひしに、今日かやうに見なすべしとは、誰か思ひ寄りしぞや」とて、上下袖をぞ濡らされける。一年宗盛公内大臣になつて、慶び申しのありし時、公卿には花山の院の中納言兼雅の卿を始め奉て、十二人扈従して遣り続けらる。蔵人の頭親宗以下の殿上人十六人前駆す。中納言四人、三位の中将も三人までおはしき。公卿も殿上人も、今日を晴れと時めき給へり。その時この時忠の卿、御前へ召され参らせて、やうやうにもてなされ、種々の引き出物賜つて、出でられ給ひしは、目出度かりし儀式ぞかし。
「今まではどんな者でも、平家の者たちの目に掛かり、言葉の端にも掛かろうと思っていたが、今日このような光景を目にするとは、誰が想像したことだろうか」と、身分上下の者は皆袖を濡らしました。一昨年宗盛公(平宗盛。平清盛の三男)が内大臣になって(宗盛が内大臣になったのは、寿永元年(1182))、慶び申し([任官叙位せられた者が、宮中などに参上してお礼を申し上げる儀式])があった時、公卿では花山院中納言兼雅卿(藤原兼雅。平清盛の娘を妻とした)をはじめ、十二人が扈従([貴人に付き従うこと])して続きました。蔵人頭親宗(平親宗)以下六人が前駆([行列などの前方を騎馬で進み、先導すること])しました。三位中将も三人参列しました(清盛の嫡男重盛の嫡男維盛、清盛の五男重衡と藤原頼実らしい)。公卿も殿上人も、今日を晴れの日と華やかな装いでした。その時時忠卿(平時忠)は、御前に呼ばれて、様々にもてなされ、種々の引き出物を賜って、御前を退出しました、まことにめでたい儀式でした。
(続く)