光季追討の後は、「急ぎ四方へ宣旨を下すべし」と人々申されければ、中納言光親承りて宣旨を書く。その状に曰く、
左弁官下
五畿内諸国早く応さに陸奥の守平義時を追討し、身を院庁に参らせ、裁断を蒙らしむべし。諸国庄園守護・地頭らの事、右内大臣(=久我通光)宣す。勅を奉るに、近曽関東の成敗と称し、天下の政務を乱る。纔に将軍の名を帯すといへども、ひとへにその詞を借り、命に於いてほしいままに裁断を都鄙に致す。あまつさへ威を耀かし皇憲を忘るるが如し。この政道を論ずるに謀反といふべし。早く五畿・七道諸国に下知し、かの義時を追討せ促しめよ。かねてまた諸国庄園守護人・地頭ら、言上促しむべき旨ある者、各院庁に参り、よろしく上奏を経べし。状に随ひて聴断すべし。そもそも国宰並び領家ら、事を綸そに寄せて、更に濫行の綺を致すなかれ。これ厳密にしてかつて違越せざる者、諸国承知し、宣に依り之を行ふべし。
承久三年五月十五日 大史小槻宿禰謹言
とぞ書きたる。東国の御使ひには、御
厩の舎人
押松丸を下さる。これにつけて人々の内消息多く下しけり。平九郎判官
胤義は、私の使ひを立てて内消息を下しけり。十六日の卯の刻に、東西南北五畿七道に綸旨を分けて下され、同じき日、南都山門を始めとして、諸寺・諸山の一の悪僧どもを召す。
悉く参るべき由領掌申す。その外、君に心ざしを運ぶ
輩、諸国七道より馳せ参ず。美濃の国より西は大略馳せ参じけり。
光季(伊賀光季)追討の後、「急ぎ全国へ宣旨を下すべき」と人々が申したので、中納言光親(葉室光親)が承って宣旨を書きました。その状には、
左弁官執筆
五畿内([大和、山城、和泉、河内、摂津の五箇国])諸国はすみやかに宣旨に応じて陸奥守平義時(北条義時)を追討し、その身を院庁に参らせ、裁断([物事の善悪・適否を判断して決めること])を仰ぐべきである。諸国の庄園守護([諸国の治安・警備に当たる者])・地頭([土地の管理、租税の徴収、検断などの権限を持つ者])は、右内大臣(久我通光)が決定すべきものに従え。勅([ 天子の命令])を下すも、近曽([昨今])では関東の成敗(決め事)とうそぶいて、天下の政務を乱している。将軍の名を与えられているとは言え、まったく勅に背き、思うがままに裁断を都鄙([京と田舎])に下す。それにとどまらず威を振って皇憲([天皇・朝廷の支配下にあるものが従うべきであるとされる法])をないがしろにしているのである。義時の政道([政治])は謀反に値する。すみやかに五畿・七道([東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道])に命じ、一刻も早く義時を追討するように。また諸国庄園守護人・地頭たちで、言上([目上の人に申し上げること])すべき事項のある者は、各々院庁に参り、上奏すること。状に従い聴断([訴えを聴いて裁くこと])する。そもそも国宰([国司])並びに領家([荘園領主])は、事件を綸そ(天皇の命令)に任せて、濫行([乱暴な行い])や不当な干渉を行うべきではない。これを固く守り違越([違反すること])する者が、諸国にいるならば、命により告げ知らせよ。
承久三年(1221)五月十五日 大史小槻宿禰が謹言([謹んで言上すること。手紙の結びに用いる])
と書いてありました。東国への使いには、厩の舎人押松丸を下しました。この状とともに人々への内々の消息([文])も数多く下しました。平九郎判官胤義(三浦胤義)は、個人的に使いを立てて文を下しました。五月十六日の卯の刻([午前六時頃])に、東西南北五畿七道に綸旨([天子などの命令])を分けて下し、同じ日、南都(奈良)山門(比叡山)をはじめとして、諸寺・諸山の悪僧([武勇に秀でた荒々しい僧])を呼び集めました。残らず参ることを了承しました。そのほか、君(後鳥羽院)に親しい者たちが、諸国七道から急ぎ参りました。美濃国より西の者はほぼすべて参りました。
(続く)