三十余騎の兵、各々馬より飛び下り飛び下り、手々に逆茂木をばものともせず、引き伏せ引き伏せ通るところに、衆徒の中より、差し詰め引き詰め散々に射たりければ、陸奥六郎義隆の首の骨を射られて、馬よりさかさまに落ちられてけり。中宮大夫進朝長も、弓手の股をしたたかに射られて、鐙を踏みかね給ひければ、義朝、「大夫は失に当たりつるな。常に鎧突きをせよ。裏かかすな」とのたまへば、その矢引つかなぐつて捨て、「さも候はず、陸奥六郎殿こそ痛手おはせ給ひ候つれ」とて、さらぬ体にて馬をぞ速められける。六郎殿討たれ給へば、首を取らせて義朝のたまひけるは、「弓矢取る身の習ひ、戦に負けて落つるは、常の事ぞかし。それを僧徒の身として、助くるまでこそなからめ、結句討ち止めんとし、物の具剥がんなどするこそ奇怪なれ。憎い奴ばら、後代の例に一人も残さず討てや者ども」と、下知せられければ、三十余騎轡を並べ、駆け入り割り付け追ひ回し、攻め詰め攻め詰め斬り付けられければ、山徒立ち所に三十余人討たれにければ、残る大衆、大略手負ひて、はうはう谷々へ帰るとて、「この落人討ち止めんと言ふ事は、誰が言ひ出だせる事ぞ」とて、あれよこれよと論じけるほどに、同士戦をしいだして、また多くぞ死にける。誠に出家の身として、落人討ち止め、物具奪ひ取らんなどして、わづかの落ち武者に駆けたてられ、多くの人を討たせ、また同士戦し出だして、数多の衆徒を失ふ事、僧徒の法にも恥辱なり、武芸のためにも瑕瑾なり。されば冥慮にも背き、神明にも放たれ奉りぬとぞ思えし。
三十騎余りの兵は、それぞれ馬から飛び下りて、手で逆茂木([敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べた柵])を難なく、引き退けて通っていると、衆徒の中から、たて続けにひっきりなしに矢を射られたので、陸奥六郎義隆(源義隆。源為義の長男)は首の骨を射られて、馬からさかさまに落ちてました。中宮大夫進朝長(源朝長。義朝の次男)も、弓手(左手)の股を深く射られて、鐙を踏むことができなくなりました、義朝は、「大夫(朝長)は矢に射られたか。鎧突き([札と札との間にすきまを生じないように、鎧をゆすり上げること])しろ。矢を通さないようにせよ」と言えば、朝長はその矢を引き抜いて捨て、「大したことはありません、義隆殿こそ深手を負っておられます」と言って、なんでもないような風で馬を速めました。朝長は討たれて、首を捕られたので義朝が言うには、「弓矢を取る武士であれば、戦に負けて逃げるのも、当たり前のことだ。それを僧徒の身であれば、助けるまでもなくとも、逆に討ち取って、兵具を盗もうとするのはけしからぬこと。憎い奴らめ、後代の例として一人も残さず討ってしまえ者どもよ」と、命じたので、三十騎余りが馬を並べて、敵に駆け入り中を割って追い回し、追い詰め追い詰め斬りました、山徒はたちまち三十人余り討たれました、残る大衆は、たいてい傷を負って、這うように谷へと帰っていきましたが、「この落人を討とうということを、いったい誰が言い出したのだ」と言って、どいつこいつと言い争っているうちに、仲間内で戦を始めて、また多くの者たちが死にました。出家の身でありながら、落人を討って、兵具を奪い取ろうとして、わずかの落ち武者に追い回されて、多くの仲間を討たれ、また同士討ちまで起こし、多くの衆徒を失うことは、僧徒の法([仏の教え])を辱め、武芸の恥でもありました。なれば冥慮([目に見えない神仏の心])にも背き、神明([神])にも見捨てられたように思えました。
(続く)