中宮大夫は、夜明くるまで出られざれば、大炊参つて見奉れば、むなしくなり給へるに、小袖引き掛けて置かれたりしかば、「見継ぎ参らせよとは、御孝養申せとにてありけり」とて、泣く泣く後ろの竹原の中に納め奉りけり。
中宮大夫(源朝長。義朝の次男)は夜が明けるまでに出て行かなかったので、大炊が訪ねてみると、すでに朝長は亡くなって、小袖([下着として着た白い着物])が掛けられていました、大炊は、「義朝殿(源義朝)が朝長殿のことを頼むと言ったのは、孝養([死者の後世を弔うこと])せよということでしたか」と思って、泣きながら裏の竹原に朝長を葬りました。
(続く)