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「平治物語」忠宗尾州に逃げ下る事

さるほどに永暦えいりやく元年正月二十三日、除目行はれて、長田おさだ四郎忠宗ただむねは壱岐かみになり、先生景宗かげむねは、兵衛じようになされけるを、父子ともに嫌ひ申す。「義朝よしとも政家まさいへは昔の将門まさかど純友すみともにも劣らぬ勇士なり。なかんづく東国に下着し給なば、 いにしへ貞任さだたふ宗任むねたふ、十二年支へたりしよりは、なほ付き従ふ兵おほかるべし。しからば由々しき御大事なるべきを、事ゆへなく討ちしとどめんは、抜群の戦功なり。その上かの人々を討つて参らせん者をば、不次の賞に行はるべしとこそ仰せ下されしか。せめてはかの所帯なれば、播磨国をも賜はり、左馬かみにもなされんこそ面目ならめ。しからずは本国なれば、美濃・尾張を賜はつてこそ、勧賞とも存ぜめ」と申せば、筑後守家貞いへやす、「あはれきやつを、二十の指を二十日に切り、首をばのこぎりにて引き切りにし候はばや。相伝の主と、正しき婿を害して、過分を望み申し、余り憎く思え候ふ。後代のためしに承つて沙汰し候はん」と申しければ、清盛、「まことにかれが所行放逸なり。我もかうこそ思へども、いまだ朝敵の余党も多く、義朝が子どもあるに、今かれを罪科せば、自余の凶徒を誰か誅戮ちゆうりくせん。よつて先方の如く恩賞を申し行ふなり。それを不足に存ずとも、許容なせそ」とのたまひけり。重盛しげもりも憎まるる由、内々聞こえければ、すでに討せらるべしなど風聞ありけるにや、面目失ふのみならず、進退危うかりしかば、急ぎ尾張へ逃げ下りけり。そのあした、宿に狂歌を詠みて捨てけり。

落ち行けば 命ばかりは 壱岐の守 そのおはりこそ 聞かまほしけれ




やがて永暦元年(1160)正月二十三日、除目([大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式])が行なわれて、長田四郎忠宗(長田忠宗)は壱岐守を、その父景宗(長田景宗)は、兵衛尉を賜りましたが、父子ともに不満に思ったのでした。「義朝(源義朝)・政家(鎌田政家=政清。義朝の家臣)は昔の将門(平将門。将門の乱を起こした)・純友(藤原純友。純友の乱を起こした)にも劣らない勇士である。もしも彼らが東国(関東)にたどり着くことがあったならば、かつて貞任(安倍貞任)・宗任(安倍貞任)が起こした十二年間の合戦(前九年・後三年の役)で源氏に従ってからというもの、いまだ源氏に付き従う兵たちは多いのです。きっと一大事になっていたことでしょう、これを討ち防いだのは、特段の戦功です。その上義朝たちを討った者には、特別の褒美を与えると命じられました。せめて官職であれば、播磨国を賜り、左馬頭にもなって当然です。それが叶わぬならば本国([生まれ育った国])ならば、美濃・尾張を賜わってこそ、褒美というものです」と言ったので、筑後守家貞(平家貞)は、「ばかなやつだ、二十本の指を二十日間に切り、首をのこぎりで引き切りにするのだ。相伝の主(平清盛)と、由緒正しい婿(清盛の娘婿。関白近衛基実もとざねか)を罵倒し、過分を望み、余りにも憎いやつじゃ。後代の例として殺してしまえ」と言いました、清盛は、「やつらの行いは身勝手だ。わしも同じように思うが、まだ朝敵の余党も多く、義朝の子どもも生きているのだから、今やつらを罪に科せば、他の凶徒を誰が誅戮([罪ある者を殺すこと])するのだ。よって除目の通り褒美を与えよう。それを不足に思うのなら、仕方ないことだ」と言いました。重盛(平ら重盛。清盛の嫡男)も憎んでいると、内々聞こえてきたので、すぐにも討たれるのではないかと噂が立ちました、長田父子は面目を失うばかりでなく、命まで危うくなったので、急いで尾張に逃げてしまいました。その朝に、宿には狂歌(しゃれ歌)を詠んで捨ててありました。

逃げてしまえば命ばかりは、助かるだろう([壱岐]=[生き])、逃げた先の尾張([終わり])のことは、どうか探さないでください。


続く


by santalab | 2013-12-13 18:09 | 平治物語

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