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「平治物語」頼朝生捕らるる事付けたり常盤落ちらるる事(その4)

やうやう暁にもなり行けば、師の坊へ入りけるに、日来は左馬かみの最愛の妻なりしかば、参詣の折々には、供の人にいたるまで、清げにこそありしか、今は引き代へて、身をやつせるのみならず、尽きせぬ嘆きに泣きしほれたる姿、目も当てられねば、師の僧あまりの悲しさに、「年来の御情け、いかでか忘れ参らせん。幼ひ人もいたはしければ、しばしはし延びてましませかし」と申せば、「御心ざしはうれしく侍れども、六波羅近き所なれば、しばしもいかがさぶらはむ。まことに忘れ給はずは、仏神の御あはれみよりほかは、頼む方も侍らねば、観音に能く能祈り申してび給へ」とて、まだ夜の中に出でければ、坊主泣く泣く、「唐の太宗は仏像を礼して、労花を一生の春の風に開き、漢の明帝は経典を信じて、寿命を秋の月に延ぶと申せば、三宝の御助けむなしかるまじく候ふ」と慰めけり。宇多こほりを心ざせば、大和大路を尋ねつつ、南を差して歩めども、習はぬ旅の朝立ちに、露と争ふ我が涙、たもとも裾もしほれけり。如月きさらぎ十日の事なれば、余寒なほ激しく、嵐にこほる道芝の、こほりに足は破れつつ、血に染む衣の裾濃すそご故、よその袖さへしほれけり。はうはう伏見の叔母を尋ね行きたれども、いにしへ源氏の大将軍の北の方など言ひし時こそ、睦びも親しみしか、今ほ謀反人の妻子となれば、うるさしとや思ひけん、物まふでしたりとて、情けなかりしかども、もしやとしばしは待ち居つつ、待つ期も過ぎて立ちかへれば、日もはややがて暮れにけり。また立ち寄るべき所もなければ、怪しげなる柴の戸に佇みしに、内より女たち出でて、情けありてぞ宿しける。世に立たぬ身の旅寝とて、憂き節繁き竹の柱、ある甲斐かひもなき命もて、一人嘆きぞ、すがの七と思ふ人はなし。されど今夜も三節にただ伏見の里に夜を明かし、出でればやがて小幡山、馬はあらばや徒歩かちにても、君を思へば行くぞとよと、幼き人に語りつつ、いざなひ行けば、この人々歩み疲れてひれ伏し給ふ。常盤、一人をいだきける上に、二人の人の手を引き、腰をさへて、行き悩みたる有様、目も当てられず。玉鉾の道行人も怪しめば、これも敵の方様の人にやと肝を消すところに、旅も哀れに思ひければ、見る者ごとに負ひ抱きて助け行くほどに、泣く泣く大和国字多郡龍門と言ふ所に尋ね入りたり、伯父を頼みて隠れにけり。




やっと夜が明けようとする頃になって、法師の宿坊に着きました、日頃は左馬頭(源義朝よしとも)の最愛の妻でしたので、参詣の度ごとに、供の人にいたるまで、美しく清らかでしたが、今ではうってかわって、みすぼらしいだけでなく、尽きない悲しみで泣きぬれた姿で、目も当てられない様でした、師の僧もあまりにもあわれに思われて、「日頃わたしにかけていただいた情けを、決して忘れてはおりません。幼い子どもたちも不憫に思われます、どうかここにしばらく隠れていてください」と言いました、常盤御前は、「わたしを思うお心はうれしく思いますが、ここは六波羅から近い場所ですから、長居することはできません。わたしのことを忘れずに思ってくれるのであれば、わたしには仏神のほかに頼れる者もいませんので、観音菩薩に祈り申してくださいませ」と言って、まだ夜が明けないうちに出て行きました、法師は泣きながら、「唐の太宗(唐朝の第二代皇帝)は仏像に祈る事をかかさなかったので、そのおかげで皇帝になることができました、漢の明帝(後漢の第二代皇帝)は経典を信じて、寿命を永らえるよう願ったので、三宝([仏、法、僧])のきっと加護があったのでしょう」と言って常盤御前を慰めました。常盤御前は、宇多郡(大和国宇多郡。今の奈良県宇陀郡あたり。常磐御前の生まれ故郷だったらしい)に行こうと思って、大和大路を探して、南に歩いて行きましたが、慣れていない朝早い旅立ちに、朝露と争うように流れる涙で、袂も裾もびっしょり濡れました。如月([旧暦二月])十日のことでしたので、余寒はまだ激しくて、嵐に凍る道の芝の、氷で足は傷ついて、血に染まる衣は染めたようになって、よその袖([別れの袖]=[別れを惜しんで涙をぬぐう袖]の反対側の袖)まで濡れました。やっとのことで伏見(今の京都市伏見区)の叔母を訪ねましたが、昔は源氏の大将軍(義朝)の妻だと言われた時には、仲睦まじい間柄でしたが、今は謀反人の妻子となって、やっかいだと思ったのか、物詣でに出ていますと言って、情けをかけてくれませんでした、一縷の望みでしばらく待っていましたが、帰ってくるはずの時刻も過ぎて立ち去る頃には、日もすでに暮れようとしていました。他に訪ねる所もないので、粗末な柴戸([粗末な住居])の前に佇んでいると、家の中から女たちが出てきて、情けをかけてくれたのでそこで夜を明かしました。忍ぶ身の旅寝でしたので、憂き節の多い竹柱のように、生きる甲斐もない命だと、常盤御前は何度も一人嘆き悲しみました、「菅の七節」と思う人は誰もいませんでした。けれども今夜も三人の子どもを連れて伏見の里で夜を明かし、柴戸を出ればすぐに小幡山(今の京都府宇治市木幡)です、馬がないのなら歩いてでも、あなたたちのことを思えばこそ行くのですよと、幼い子どもたちに話しながら、子どもたちをなだめせかして歩いて行きましたが、子どもたちは歩き疲れてしゃがみこんでしまいました。常盤御前は、一人(牛若=源義経)を抱きかかえた上に、残る二人の子の手を引いて、背中を後押ししながら、思うように進めなくて苦労する様子は、見ていられないほどでした。道行く(「玉鉾」は「道」に掛かる枕詞)人が常盤御前たちを不審がると、この者たちは敵方の人ではないかとひやひやする上に、この旅が子どもたちにとって辛いものだと思えば、見る人がある度に子どもたちを背負い抱いて進んで、泣きながらようやく大和国字多郡龍門という所に着きました、どこで伯父を頼りに隠れていました。


(「菅の七節」ですが、どうも『万葉集』から来ているらしいのです、「天に有る 佐佐羅の小野の 七ふ菅 手に取り持ちて 久かたの 天の川原に 出で立ちて 潔身みそぎてましを」です。「佐佐羅」=「さらさら」でしょうか、「菅」=「イネ科の草」で「菅笠」の原材料で、つまり、「天にあるという『さらさら原』の七節菅の笠を手に持って、天の川原に行き、川の水で身を清めたいものです」ということですね。ですから、「『菅の七節』と思ふ人はなし」で「誰もみそぎ詣でとは思わない」=「夜逃げ」ですし、「されど今夜も『三節』に」は「けれど今夜もただ『三人の子』を連れて」という意味なんでしょう。
そして、「小幡山」もやはり『万葉集』です。「山科の 木幡の山を 馬はあれど 徒歩より吾が来し 汝を思ひかねて」。この歌では、「馬はあるけれども、(馬だとまわりに気付かれてしまうから?)あなたのことを思って歩いてきたのです」のような感じだと思いますが、ここでは、「馬がないのであれば、歩いてでも」としました。)


続く


by santalab | 2013-12-16 12:56 | 平治物語

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