治承四年八月十七日に頼朝謀反起こし給ひて、和泉の判官兼隆を夜討ちにして、同じき十九日相模の国小早川の合戦に打ち負けて、土肥の杉山に引き篭もり給ふ。大庭の三郎、俣野の五郎、土肥の杉山を攻むる。二十六日の曙に伊豆の国真名鶴崎より船に乗りて、三浦を心ざして押し出だす。折節風激しくて、岬へ船を寄せ兼ねて、二十八日の夕暮れに安房の国洲の崎と言ふ所に御船を馳せ上げて、その夜は、滝口の大明神に通夜ありて、夜とともに祈誓をぞ申されけるに、明神の示し給ふぞと思しくて、御宝殿の御戸を美しき御手にて押し開き、一首の歌をぞ遊ばしける。
源は 同じ流れぞ石清水 たれ堰き上げよ 雲の上まで
治承四年(1180)八月十七日に頼朝(源頼朝)は謀反を起こして、和泉判官兼隆(山木兼隆=平兼隆)を夜討ちにして、同じ八月十九日に相模国小早川の合戦(石橋山の戦い)に打ち負けて、土肥(静岡県伊豆市)の杉山に籠もりました。大庭三郎(大庭景親)、俣野五郎(俣野景久。大庭景親の弟)は、土肥の杉山を攻めました。二十六日の日の出に頼朝は伊豆国真名鶴崎(神奈川県足柄下郡)より船に乗って、三浦(神奈川県三浦市)を目指して漕ぎ出しました。ちょうど風は激しく、岬に船を寄せることができませんでした、二十八日の夕暮れに安房国の洲の崎(洲崎。千葉県館山市)と言う所に船を着けて、その夜は瀧口大明神(千葉県南房総市にある下立松原神社)で通夜([神社や仏堂にこもって終夜祈願すること])しました。夜とともに祈誓しているところに、明神が示現([神仏が霊験を示し現すこと])して、宝殿([神殿])の戸を美しい手で押し開き、一首の歌を詠みました。
瀧口大明神の源は石清水八幡権現と同じであるぞ。源氏の誰を盛り上げることにしようか、雲の上([宮中])までも。