吉次これに驚き、がばと起きて見れば、鬼王の如くにて出で来たる。これは信高が財宝に目をかけて出で来るを知らず、源氏を具し奉り、奥州へ下る事、六波羅へ聞こえて討つ手向かひたると心得て、取る物も取り敢へず、掻い伏いてぞ逃げにける。遮那王殿これを見給ひて、すべて人の頼むまじきものは次の者にてありけるぞや。型の如くも侍ならば、かくはあるまじきものを、とてもかくても都を出でし日よりして命をば宝故に奉る。屍をば鏡の宿に晒すべしとて、大口の上に腹巻取つて引き着て、太刀取り脇に挟み、唐綾の小袖取りて打ち被き、一間なる障子の中をするりと出で、屏風一襲に引き畳み、前に押し寄する。八人の盗人を今やと待ち給ふ。「吉次奴に目端放すな」とて喚いてかかる。屏風の陰に人ありとは知らで、松明振つて差し上げ見れば、美しきとも斜めならず。南都山門に聞こえたる児鞍馬を出で給へる事なれば、極めて色白く、鉄漿黒に眉細く作りて、衣打ち被き給ひけるを見れば、松浦佐用姫領巾振る野辺に年を経し、寝乱れて見ゆる黛の、鴬の羽風に乱れぬべくぞ見え給ふ。玄宗皇帝の代なりせば楊貴妃とも謂ひつべし。漢の武帝の時ならば李夫人かとも疑ふべし。傾城と心得て、屏風に押し纏ひてぞ通りける。
吉次(金売吉次)は驚いて、がばっと起きて見れば、鬼王のような者がやって来ました。吉次は強盗たちが信高(吉次)の財宝に目をつけてやって来たとは思わず、源氏(遮那王)を連れて、奥州に下ることが、六波羅(平家)に知られて討つ手がやって来たのだと思って、取るものも取りあえず、這うようにして逃げました。遮那王はこれを見て、何事においても頼りにならないのは次の者([第二流の者])よ。本当の侍ならば、逃げ出すはずもない、けれども都を出たその日から命を吉次に預けたのだ。屍を鏡の宿に晒すのも仕方ないと、大口([大口袴]=[裾の口が大きい下袴])の上には腹巻([簡易な鎧])を着て、太刀を取り脇に挟み、唐織の小袖を引きかぶり、一間の障子の中からするりと外へ出て、屏風を一つ引きたたんで、そこに立ちました。遮那王は八人の盗人を今かと待ち構えました。遮那王は「吉次よ奴らから目を離すな」と申して喚きながら強盗たちに打ってかかりました。強盗たちは屏風の陰に人がいるとは知らなかったので、松明を振って差し上げて見れば、とても美しい者がそこにいました。南都([奈良])山門([比叡山])にも聞こえた稚児が鞍馬山を出たのですから、とても色白で、鉄漿黒([お歯黒])で眉を細く書いて、着物をかぶっている姿は、松浦佐用姫(佐用姫。唐津にいたとされる豪族の娘)が男=大伴狭手彦との別れを惜しんで鏡山=佐賀県唐津市にある山。の頂上から領巾=女性が首から肩にかけ、左右に垂らして飾りとした布。を振って船を見送ったという。最期は悲しみのあまり石になってしまったという)が領巾振る野辺で石となってしまったというその、佐用姫が寝乱れたようで黛が、まるで鶯の羽が風に揺れるように見えました。玄宗皇帝(唐の第6代皇帝。さしもの賢帝であったが晩年は楊貴妃に溺れて世は乱れた。年老いて遊び出すと歯止めが利かないらしい)の代にたとえるならば、楊貴妃のようでした。漢武帝(前漢第七代皇帝)の時代ならば李夫人(漢武帝の后妃の一。「傾国」=「君主が心を奪われて国を危うくするほどの美人」の由来となった女性)かと疑うほどでした。強盗たちは遮那王を傾城([傾国]=[絶世の美女])と思って、屏風に押し遣って通り過ぎました。
(続く)