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「義経記」鏡の宿吉次が宿に強盗の入る事(その4)

吉次きちじこれに驚き、がばと起きて見れば、鬼王の如くにて出で来たる。これは信高のぶたかが財宝に目をかけて出で来るを知らず、源氏を具し奉り、奥州あうしうへ下る事、六波羅へ聞こえて討つ手向かひたると心得て、取る物も取り敢へず、掻い伏いてぞ逃げにける。遮那王殿しやなわうどのこれを見給ひて、すべて人の頼むまじきものは次の者にてありけるぞや。型の如くもさぶらひならば、かくはあるまじきものを、とてもかくても都を出でし日よりして命をば宝ゆゑに奉る。かばねをば鏡の宿しゆくに晒すべしとて、大口おほくちうへに腹巻取つて引き着て、太刀取り脇に挟み、唐綾の小袖取りて打ちかづき、一間なる障子しやうじうちをするりと出で、屏風びやうぶよろひに引き畳み、まへに押し寄する。八人の盗人ぬすびとを今やと待ち給ふ。「吉次目端めばし放すな」とておめいてかかる。屏風の陰に人ありとは知らで、松明たいまつ振つて差し上げ見れば、いつくしきともなのめならず。南都山門に聞こえたるちご鞍馬を出で給へる事なれば、きはめて色白く、鉄漿黒かねぐろまゆ細く作りて、きぬ打ち被き給ひけるを見れば、松浦佐用姫まつらさよひめ領巾ひれ振る野辺に年を経し、寝乱れて見ゆるまゆずみの、うぐひす風に乱れぬべくぞ見え給ふ。玄宗げんそう皇帝くわうていの代なりせば楊貴妃やうきひとも謂ひつべし。漢の武帝の時ならば李夫人りふじんかとも疑ふべし。傾城けいせいと心得て、屏風に押しまとひてぞとほりける。




吉次(金売吉次)は驚いて、がばっと起きて見れば、鬼王のような者がやって来ました。吉次は強盗たちが信高(吉次)の財宝に目をつけてやって来たとは思わず、源氏(遮那王)を連れて、奥州に下ることが、六波羅(平家)に知られて討つ手がやって来たのだと思って、取るものも取りあえず、這うようにして逃げました。遮那王はこれを見て、何事においても頼りにならないのは次の者([第二流の者])よ。本当の侍ならば、逃げ出すはずもない、けれども都を出たその日から命を吉次に預けたのだ。屍を鏡の宿に晒すのも仕方ないと、大口([大口袴]=[裾の口が大きい下袴])の上には腹巻([簡易な鎧])を着て、太刀を取り脇に挟み、唐織の小袖を引きかぶり、一間の障子の中からするりと外へ出て、屏風を一つ引きたたんで、そこに立ちました。遮那王は八人の盗人を今かと待ち構えました。遮那王は「吉次よ奴らから目を離すな」と申して喚きながら強盗たちに打ってかかりました。強盗たちは屏風の陰に人がいるとは知らなかったので、松明を振って差し上げて見れば、とても美しい者がそこにいました。南都([奈良])山門([比叡山])にも聞こえた稚児が鞍馬山を出たのですから、とても色白で、鉄漿黒([お歯黒])で眉を細く書いて、着物をかぶっている姿は、松浦佐用姫(佐用姫。唐津にいたとされる豪族の娘)が男=大伴狭手彦さでひことの別れを惜しんで鏡山=佐賀県唐津市にある山。の頂上から領巾=女性が首から肩にかけ、左右に垂らして飾りとした布。を振って船を見送ったという。最期は悲しみのあまり石になってしまったという)が領巾振る野辺で石となってしまったというその、佐用姫が寝乱れたようで黛が、まるで鶯の羽が風に揺れるように見えました。玄宗皇帝(唐の第6代皇帝。さしもの賢帝であったが晩年は楊貴妃に溺れて世は乱れた。年老いて遊び出すと歯止めが利かないらしい)の代にたとえるならば、楊貴妃のようでした。漢武帝(前漢第七代皇帝)の時代ならば李夫人(漢武帝の后妃の一。「傾国」=「君主が心を奪われて国を危うくするほどの美人」の由来となった女性)かと疑うほどでした。強盗たちは遮那王を傾城([傾国]=[絶世の美女])と思って、屏風に押し遣って通り過ぎました。


続く


by santalab | 2013-12-21 21:38 | 義経記

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