きつと思し召し出だされけるは、義経が九つの年、鞍馬にありて東光房の膝の上に寝ねたりし時、「あはれ幼き人の御目の気色や。如何なる人の君達にて渡らせ給ひ候ふやらん」と言ひしかば、「これこそ左馬の頭殿の君達」とのたまひしかば、「あはれ、末の世に平家の為には大事かな。この人々を助け奉りて、日本に置かれん事こそ獅子虎を千里の野辺に放つにてあれ。成人し給ひ候はば、決定の謀反にてあるべし。聞きも置かせ給へ。自然の事候はん時、御尋ね候へ。下総の国に下河辺の庄と申す所に候ふ」と言ひしなり。遙々と奥州へ下らんよりも陵が許へ行かばやと思し召し、吉次をば「下野の室の八嶋にて待て。義経は人を尋ねてやがて追ひつかんずるぞ」とて、陵が許へぞおはしける。
はっきりと思い出したことは、義経が九歳の年、鞍馬寺で東光坊(蓮忍)の膝の上で寝ていた時に、「かわいい幼子だ。何と申す人の君達([子])ですか」と訊ねると、東光坊が「この子こそ左馬頭殿(源義朝)の君達です」と答えると、「そうでしたか、後の世に平家にとっての大事となりましょう。この子を助けて、日本に置いておくことは獅子虎を千里の野辺に放つようなものです。成人すれば、必ずや謀反を起こしましょう。覚えておいてください。もし事を起こすようなことがありましたら、わたしの許を尋ねてください。下総国の下河辺庄(現千葉県野田市あたり)と申す所におりますので」と言いました。義経は遙々と奥州へ下るよりも陵(堀頼重。源光重の三男。官位は諸陵頭)の許へ行こうと思い、吉次に「下野の室の八島(現栃木県栃木市にある大神神社境内の池にある八つの島)で待て。わたし義経は人を尋ねてすぐに追ひ付くから」と申して、陵の許を訪ねました。
(続く)