主の男申しけるは、「そもそも都にては如何なる人にて渡らせ給ひ候ふぞ。我らも知る人も候はねば、自然の時は尋ね参るべし。今一両日御逗留候へかし」と申す。「東山道へかからせ給ひ候はば碓氷の峠海道にかからば足柄まで送り参らすべし」と申すを都になからんもの故に、尋ねられんと言はんも詮なし。この者を見るに二心なんどはよもあらじ、知らせばやと思し召し、「これは奥州の方へ下る者なり。平治の乱に亡びし下野の左馬の頭が末の子牛若とて、鞍馬に学問して候ひしが、今男になりて、左馬九郎義経と申すなり。奥州へ秀衡を頼みて下り候ふ。今自然として知る人になり奉らめ」と仰せけるを、聞きも敢へず、つと御前に参りて、御袂に取り付き、はらはらと泣き、
主の男が申すには、「そもそも都では何をなさっておいでの人でございましょう。我らも都には知る者もおりませんので、事が起こった時には訪ねておいでください。あと一両日はご逗留くだされ」と申しました。「東山道を行かれるのなら碓氷峠(現群馬 ・長野県境にある峠)東海道を行かれるのなら足柄(現静岡・神奈川県境にある峠)までお送りいたします」と申したので義経は都に知る者もいないのなら、身分を明かしても大丈夫だろうと思いました。この者を見るに付け二心などはよもやないに違いない、身分を明かそうと思って、「わたしは奥州の方へ下る者です。平治の乱(1159)で亡んだ下野の左馬頭(源義朝)の末子牛若と申して、鞍馬寺(現京都市東山区にある寺)で学問をしておりましたが、今は男(元服)になって、左馬九郎義経と申す者です。奥州へ秀衡(藤原秀衡)を頼って下るところです。今に自然と知るところとなりましょう」と申すと、主は聞き終わらないうちに、すっと御前に参って、袂に取り付き、涙をとめどなく流して泣いて、
(続く)