「あら無慙や、問ひ奉らずは、いかでか知り奉るべきぞ。我々が為には重代の君にて渡らせ給ひけるものをや。かく申せば、如何なる者ぞと思すらん。親にて候ひし者は、伊勢の国二見の者にて候ふ。伊勢のかんらひ義連と申して、大神宮の神主にて候ひけるが、清水へ詣で下向しける、九条の上人と申すに乗合して、これを罪科にて上野の国成島と申す所に流され参らせて、年月を送り候ひけるに、故郷忘れんが為に、妻子を儲けて候ひけるが、懐妊して七月になり候ふに、かんらひ遂に御赦免もなくて、この所にて失ひ候ひぬ。その後産して候ふを、母にて候ふ者、胎内に宿りながら、父に別れて果報拙きものなりとて捨て置き候ふを、母方の伯父不便に思ひ、取り上げて育て成人して、十三と候ふに元服せよと申し候ひしに、『我が父と言ふ者如何なる人にてありけるぞや』と申して候へば、母涙に咽び、とかくの返事も申さず。
「なんとお痛わしいこと、訊ねていなければ、どうして知ることがありましたでしょうか。まさか我々にとって重代([代々])の君であられたとは。こう申す拙者を、何者かと思っておられることでしょう。親は、伊勢国二見(現三重県伊勢市)の者でございました。伊勢のかんらひ(神頼か?)義連と申して、大神宮の神主でしたが、清水寺に参詣し下向の時、九条上人と申す者と乗合になって、事が起こし罪科を問われて上野国の成島(現群馬県館林市)という所に流されて、年月を送っておりました、故郷を忘れるために妻子を儲けましたが、懐妊して七箇月にして、かんらひは遂にご赦免もなく、ここで亡くなりました。その後子を産みましたが、母は、胎内に宿りながら、父と別れて果報少ない者と捨て置かれたのを、母方の伯父が不便に思って、手許の置いて育ててわたしは成人して、十三の時に元服せよと申したので、『我が父はどんな人でしたか』と訊ねると、母は涙に咽び、何も返事しませんでした。
(続く)