元暦二年五月七日、九郎大夫の判官義経、大臣殿父子具足し奉て、すでに都を立ち給ふ。粟田口にもかかり給へば、大内山は雲居の外に隔たりぬ。関の清水を見給ひて、大臣殿泣く泣く詠じ給ひけり。
都をば 今日を限りの せきみづに また逢坂の 影やうつさん
元暦二年(1185)五月七日、九郎大夫判官義経(源義経)は、大臣殿父子(平宗盛、清盛の三男とその長男清宗)を率いて、都を出発しました。粟田口(今の京都市東山区粟田口。東海道の京の出入口に当たるらしい)まで来ると、大内山([皇居])は雲の彼方に遠ざかってしまいました。関の清水(今の滋賀県大津市。逢坂の関跡付近にあった清水)を見て、宗盛は泣きながら歌を詠みました。
都は今日を限り別れていきますが、また逢坂の関の清水に影を映すことができるのでしょうか。
(続く)