道すがらも心細げにおはしければ、判官情けある人にて、やうやうに慰め奉り給ふ。大臣殿、「あはれいかにもして、今度の命を助けて賜べ」とぞのたまひける。判官、「さ候へばとて、御命失ひ奉るまでは、よも候はじ。たとひさ候ふとも、義経請うて候へば、今度の勲功の賞に申し返て、御命ばかりをば助け奉らん。さりながらも、遠き国、はるかの島へも移しぞ遣り参らせんずらん」と申されたりければ、大臣殿、「たとひ蝦夷が千島なりとも、命だにあらば」とのたまひけるこそ口惜しけれ。日数経れば、同じき二十三日、判官鎌倉へ下り着き給ふべき由聞こえしかば、梶原平蔵景時、判官に先立つて、鎌倉殿へ申しけるは、「今は日本国残る所もなう、従ひ付き奉て候ふ。さは候へども、御弟九郎大夫の判官殿こそ、終の御敵とは見えさせ給ひて候へ。その故は一を以つて万を察すとて、『一の谷を上の山より落とさずは、東西の木戸口破れ難し。
大臣殿(平宗盛、清盛の三男)は道すがらも不安そうだったので、判官(源義経)は情け深い者でしたから、度々慰めました。宗盛は、「ああどうにかして、命をお助けください」と言いました。義経は、「どんなことがあっても、命を失うほどのことは、ないでしょう。たとえそうなろうと、わたしが頼んでみましょう、今度の勲功([手柄])の褒美にしてくださいと申せば、命だけは助けることができるでしょう。そうは言えども、遠国、はるか遠くの島へも流されることになるかもしれませんが」と言うと、宗盛は、「たとえ蝦夷の千島(千島列島)であろうと、命さえ助かれば」と言うことが悲しくありました。日数を経て、同じ五月二十三日に、義経が鎌倉に着くと聞こえたので、梶原平蔵景時(梶原景時)は、義経が着く前に、頼朝に申すには、「今では日本国中残すところなく、皆源氏に従い付いております。そうはいえども、弟の九郎大夫判官殿(義経は頼朝の弟)だけは、最後の敵のように思えてなりません。その訳は一を以つて万を察す([一を聞いて十を知る]=[物事の一部を聞いただけで全部を理解できる])と申しますが、『一の谷(今の神戸市須磨区西部。平家の砦があった所)の上の山より平家を追い落とさなければ、東西の木戸口([城・柵などの出入り口])を突破することは難しかったのございます。
(続く)