秀康合戦の総奉行にて、胤義・盛綱・重忠以下、六月三日卯の刻に都を立つて、同じき四日尾張河に着きて手々を分かつ。大炊渡は仙道の手なり。この手に修理大夫惟義・その子駿河の大夫の判官維信・筑後の六郎左衛門・糟屋の四郎左衛門尉久季・西面の者少々、その勢二千余騎。宇留間の渡には美濃の目代帯刀左衛門尉・神地の蔵人入道二千余騎。池瀬には朝日の判官代頼清・関の左衛門尉政安一千余騎。板橋には土岐の次郎判官代光行・海泉の太郎重国一千余騎。摩免戸は大手とて、能登の守秀康・三浦の平九郎判官胤義・山城の守広綱・佐々木の下総前司盛綱・同じく弥太郎判官高重・安芸の宗内左衛門・加賀美の右衛門尉久綱・弥二郎左衛門盛時・足助の次郎重成、西面の輩少々相具し一万余騎。稗島には長瀬判官代・重太郎左衛門入道五百余騎。志岐の渡には、安芸の太郎入道・臼井の太郎入道・山田の左衛門尉五百余騎。墨俣には河内の判官秀澄・山田の次郎重忠・後藤の判官基清・錦織の判官代義嗣、西面少々相具してその勢三千余騎。市川崎には加藤の伊勢前司光員、伊勢国の住人相具してその勢一千余騎、都合味方の御勢、東国へ差し下さるる分二万一千余騎に過ぎざりけり。
秀康(藤原秀康)を合戦の総奉行([主君などの命令を奉じて物事を執り行う者])として、胤義(三浦胤義)・盛綱(大江盛綱)・重忠(山田重忠)以下、六月三日の卯の刻([午前六時頃])に都を立って、同じ六月四日に尾張川(木曽川)に着いて手を分けました。大炊渡(現岐阜県可児市)には仙道(中山道)の手が向いました。この手は修理大夫惟義(大内惟義)・その子駿河大夫判官維信(大内維信。惟義の嫡男)・筑後六郎左衛門(八田知尚)・糟屋四郎左衛門尉久季(糟屋久季)・西面の武士([院の西に勤務した武士])少々、その勢二千騎余りでした。宇留間渡(現岐阜県各務原市鵜沼)には美濃目代帯刀左衛門尉(斎藤親頼)・神地蔵人入道二千騎余りが向いました。池瀬(苧ヶ瀬池。現岐阜県各務原市)には朝日判官代頼清(朝日頼清)・関左衛門尉政安(関政安)一千騎余りが向いました。板橋渡(現岐阜県各務原市)には土岐次郎判官代光行(土岐光行)・海泉重国ら一千騎余りが向いました。摩免戸(現岐阜県各務原市前渡)には大手([敵の正面を攻撃する軍勢])として、能登守秀康(藤原秀康)・三浦平九郎判官胤義(三浦胤義)・山城守広綱(佐々木広綱)・佐々木下総前司盛綱(佐々木盛綱)・同じく弥太郎判官高重(佐々木高重)・安芸宗内左衛門(多胡惟宗)・加賀美右衛門尉久綱(加賀美久綱)・弥二郎左衛門盛時(加賀美盛時)・足助次郎重成(足助重成)、西面の武士少々を引き連れて一万騎余りでした。稗島(?)には長瀬判官代・重太郎左衛門入道五百騎余り。志岐の渡(?)には、安芸太郎入道・臼井太郎入道・山田左衛門尉五百騎余り。墨俣(現岐阜県大垣市)には河内判官秀澄(藤原秀澄)・山田次郎重忠(山田重忠)・後藤判官基清(後藤基清)・錦織判官代義嗣(錦織義嗣)、西面の武士を少々引き連れその勢三千騎余りで向かいました。市川崎(市脇。現岐阜県羽島市)には伊勢前司光員(加藤光員)が、伊勢国の住人を引き連れてその勢一千騎余りで向かいましたが、都合味方の勢として、東国に差し向けたのは二万一千騎余りに過ぎませんでした。
(続く)