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Santa Lab's Blog


「水鏡」序(その6)

次に空劫くうこふまうして、また二十の中劫のほどを、世の中に何もなくて、大空の如くにて過ぐるなり。空しければ、空劫とは申すなり。この成住壊空じやうぢゆうゑくうの四劫を経るほどは、八十の中劫を過しつるぞかし。これを一つの大劫とは申すなり。かくて終はりてはまた始まり、始まりては終はりして、いつを限りと云ふ事なし。かくの如くして、水火風災などあるべし。こと長ければ申さず。この住劫と申しつるに、仏は世に出で給ふなり。その中に、人の命まさりざまになる折は、楽しみ驕れる心のみありて、教へに叶ふまじければ出で給はず。命やうやう落ちつ方に、物のあはれをも知り、教へ事にも叶ひぬべきほどを見はからひ給ひて出で給ふなり。この住劫にとりては、初め八劫には、仏出で給はず。第九の減劫に七仏の出で給ひしなり。釈迦の出で給ひしは、人の命百歳の時なれば、第九劫の無下に末になりにたるにこそ。第十の減劫の初めに、弥勒は出で給はんずるなれ。第十五の減劫に、九百九十四仏出で給ふべし。かくの如く、世に従ひて、人の命も果報もなり罷るなり。




次に空劫([四劫=世界の成立から破滅に至る時の経過を四つに大別したもの。の第四。世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間])と申して、また二十中劫([大劫を均等に八十分割したもの])は、世の中には何もなくて、大空のように過ぎて行く。空しい期間なので、空劫と申す。この成住壊空の四劫を経るまでに、
八十中劫を過ごすといわれておる。これを一劫と呼ぶ。こうしてに世の中は終わってはまた始まり、始まっては終わり、限りというものはないのじゃ。同じように世の中に、水火風災なども起こるものよ。長くなるので申さぬが。この住劫([四劫の第二。人類が世界に安住する時期])と申す時代に、仏は世に現れたのじゃ。住劫の間に、人命が伸びていたなら、楽しみのままに振る舞って、教えが広まることはなく仏が世に現れることはなかったじゃろう。命が短くなれば、悲しみを知り、教えに従うだろうと仏は世に現れたのじゃ。この住劫において、初めの八度の劫には、仏は現れなかった。九度目の減劫([住劫において、人間の寿命が、無量歳または八万歳から、年々または百年に一歳ずつ減じて、十歳になるまでの過程])に七仏([過去七仏]=[釈迦と、その以前にこの世に現れたという、毘婆尸びばし尸棄しき毘舎浮びしやぶ拘留孫くるそん拘那含牟尼くなごんむに迦葉かせふの六仏])が現れたのじゃ。釈迦がこの世に現れたのは、人の命が百歳の時じゃった、九回目の劫も末になって現れたのじゃ。第十の減劫の初めに、弥勒菩薩が現れるといわれておる。十五回目の減劫には、九百九十四仏が現れるそうじゃ。こうして、世に従い、人の命も果報([前世での行いの結果として現世で受ける報い])も定まるのじゃ。


続く


by santalab | 2014-01-22 20:07 | 水鏡

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