次に空劫と申して、また二十の中劫のほどを、世の中に何もなくて、大空の如くにて過ぐるなり。空しければ、空劫とは申すなり。この成住壊空の四劫を経るほどは、八十の中劫を過しつるぞかし。これを一つの大劫とは申すなり。かくて終はりてはまた始まり、始まりては終はりして、いつを限りと云ふ事なし。かくの如くして、水火風災などあるべし。こと長ければ申さず。この住劫と申しつるに、仏は世に出で給ふなり。その中に、人の命まさりざまになる折は、楽しみ驕れる心のみありて、教へに叶ふまじければ出で給はず。命やうやう落ちつ方に、物のあはれをも知り、教へ事にも叶ひぬべきほどを見はからひ給ひて出で給ふなり。この住劫にとりては、初め八劫には、仏出で給はず。第九の減劫に七仏の出で給ひしなり。釈迦の出で給ひしは、人の命百歳の時なれば、第九劫の無下に末になりにたるにこそ。第十の減劫の初めに、弥勒は出で給はんずるなれ。第十五の減劫に、九百九十四仏出で給ふべし。かくの如く、世に従ひて、人の命も果報もなり罷るなり。
次に空劫([四劫=世界の成立から破滅に至る時の経過を四つに大別したもの。の第四。世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間])と申して、また二十中劫([大劫を均等に八十分割したもの])は、世の中には何もなくて、大空のように過ぎて行く。空しい期間なので、空劫と申す。この成住壊空の四劫を経るまでに、
八十中劫を過ごすといわれておる。これを一劫と呼ぶ。こうしてに世の中は終わってはまた始まり、始まっては終わり、限りというものはないのじゃ。同じように世の中に、水火風災なども起こるものよ。長くなるので申さぬが。この住劫([四劫の第二。人類が世界に安住する時期])と申す時代に、仏は世に現れたのじゃ。住劫の間に、人命が伸びていたなら、楽しみのままに振る舞って、教えが広まることはなく仏が世に現れることはなかったじゃろう。命が短くなれば、悲しみを知り、教えに従うだろうと仏は世に現れたのじゃ。この住劫において、初めの八度の劫には、仏は現れなかった。九度目の減劫([住劫において、人間の寿命が、無量歳または八万歳から、年々または百年に一歳ずつ減じて、十歳になるまでの過程])に七仏([過去七仏]=[釈迦と、その以前にこの世に現れたという、毘婆尸・尸棄・毘舎浮・拘留孫・拘那含牟尼・迦葉の六仏])が現れたのじゃ。釈迦がこの世に現れたのは、人の命が百歳の時じゃった、九回目の劫も末になって現れたのじゃ。第十の減劫の初めに、弥勒菩薩が現れるといわれておる。十五回目の減劫には、九百九十四仏が現れるそうじゃ。こうして、世に従い、人の命も果報([前世での行いの結果として現世で受ける報い])も定まるのじゃ。
(続く)