次の御門、神功皇后と申しき。開化天皇の五世の孫なり。仲哀天皇の后にておはせしなり。御母は、葛木高額媛。辛巳の年十月二日、位に即き給ひき。女帝はこの御時始まりしなり。世を保ち給ふ事六十九年。御心ばへめでたく、御容よに優れ給へりき。仲哀天皇の御時、八年と申ししに、筑紫にて、神、この皇后に憑き給ひてのたまはく、「さまざまの宝多かる国あり。新羅と云ふ。行き向かひ給はば、おのづから従ひなん」とのたまひき。しかるにその事なくて止みにき。皇后いまのたまはく、「御門、神の教へに従ひ給はで、世を保ち給ふ事久しからずなりぬ。いと悲しき事なり。いづれの神の祟りをなし給へるぞ」と、七日祈り給ひしかば、神、託宣してのたまはく、「伊勢国五十鈴の宮に侍る神なり」と顕れ給ひしによりて、皇后、浦に出でさせ給ひて、御髪を海にうち入れさせ給ひて、「この事叶ふべきならば、我が髪分れて二つになれ」とのたまひしに、やがて二つになりにき。
次の帝は、神功皇后と申されました。開化天皇(第九代天皇)の五世孫でした。仲哀天皇(第十四代天皇)の皇后でした。母は、葛木高額媛(葛城高顙媛)でした。辛巳の年(201)十月二日、帝位に即かれました。女帝はこの時始まりました。世を治められること六十九年。知恵があり、顔かたち美しい人でした。仲哀天皇の御宇、仲哀天皇八年(199)に、筑紫で、神が、神功皇后に憑いて申すには、「さまざまの宝多い国があるぞ。新羅という国だ。出向けば、従い付くだろう」と申しました。けれども仲哀天皇は侵攻することなくお隠れになりました。神功皇后があらためて申すには、「仲哀天皇は、神の教えに従わなかったので、世を長く保つことができなかったのです。とても悲しいことです。何と申す神が祟りをなしたのでしょう」と、七日祈ると、神が、託宣([神が人に 乗り移り神の意志を伝えること])して申すには、「伊勢国五十鈴宮(伊勢神宮内宮)の神(天照大神)ぞ」と顕れました、神功皇后は、浦に出て、髪を海に入れて、「願いが叶うなら、わたしの髪を二つに分けよ」と申せば、たちまち髪は二筋に分かれました。
(続く)