その頃北白川に世に越えたる者あり。法眼には妹婿なり。しかも弟子なり。名をば湛海坊とぞ申しける。彼が許へ使ひを遣はしければ、ほどなく湛海来たり、四間なる所へ入れて様々にもてなして申しけるは、「御辺を呼び奉る事別の子細にあらず。去んぬる春の頃より法眼が許にさる体なる冠者一人、下野の左馬の頭の君達など申す。助け置き悪しかるべし。御辺より外頼むべく候ふ人なし。夕さり五条の天神へ参り、この人を賺し出だすべし。首を斬つて見せ給へ。さもあらば五六年望み給ひし六韜兵法をも御辺に奉らん」と言ひければ、「さ承りぬ。善悪罷り向かひてこそ見候はめ。そもそも如何様なる人にておはしまし候ふぞ」と申しければ、「いまだ堅固若き者、十七八かと思え候ふ。良き腹巻に黄金作りの太刀の心も及ばぬを持ちたるぞ。心許し給ふな」と言ひければ、湛海これを聞きて申しけるは、「何条それほどの男の分に過ぎたる太刀帯いて候ふとも何事かあるべき。一太刀にはよも足り候はじ。事々し」と呟きて、法眼が許を出でにけり。
その頃北白川(現京都市左京区)に世に越えた剛の者がいました。法眼(鬼一法眼)の妹婿でした。かつ法眼の弟子でした。名を湛海坊と言いました。法眼が湛海坊の許へ使いを遣わすと、ほどなく湛海が訪ねて来たので、四間の部屋に招き入れて様々にもてなして申すには、「お主を呼んだのはほかに訳あってのことではない。去る春頃よりわし法眼の許に冠者が一人いるが、下野左馬頭(源義朝)の君達([子])だという。助け置いては都合が悪い。お主のほかに頼むべき者はいない。夕方になったら五条の天神(現京都市下京区にある五條天神宮)へ参れ、奴にうまく言って行かせよう。首を斬ってほしい。なし終えたなら五六年望んでおった六韜([中国の代表的な兵法書])の兵法をお主に見せてやるぞ」と言うと、「承知しました。ともかく五条天神へ行きましょう。いったいどんな者なのですか」と訊ねました、法眼は「まだ若者よ、十七八かと思うが。よい腹巻([鎧])に黄金作りの太刀([太刀の金具を金銅づくりにしたもの])で見たこともないような見事なものを持っておる。心を許すな」と言うと、湛海はこれを聞いて申すには、「そのような若造が分に過ぎた太刀を身に付けていたところで心配することはない。一太刀で十分だ。申すまでもないことよ」と呟いて、法眼の許を出て行きました。
(続く)