片岡は京の君、伊勢の三郎をば宣旨の君、熊井太郎は治部の君とぞ申しける。さては上野坊、上総坊、下野坊などと言ふ名を付きてぞ呼びける。判官殿は殊に知る人おはしければ、垢の付きたる白き小袖二つに矢筈付けたる地白の帷子に、葛大口群千鳥を摺りにしたる柿の衣に、古りたる頭巾、目の際まで引つこうで、戒名をば、大和坊とぞ申しける。思ひ思ひの出で立ちをぞしける。弁慶は大先達にてありければ、袖短かなる浄衣に、褐の脛巾にごんづ履いて、袴の括り高らかに結ひて、新宮様の長頭巾をぞ懸けたりける。岩透と言ふ太刀相近に差しなして、法螺貝をぞ下げたりける。武蔵坊は喜三太と言ふ下部を強力になして、懸けさせたる笈の足に、猪の目彫りたる鉞に八寸ばかりありけるをぞ結ひ添へたる。天頂には四尺五寸の大太刀を真横様にぞ置きたりける。心付きも出で立ちも、あはれ先達やとぞ見えける。
片岡(片岡常春)には京の君、伊勢三郎(伊勢義盛)は宣旨の君、熊井太郎(熊井忠基)には治部の君と名付けました。他に上野坊、上総坊、下野坊などという名を付けて呼ぶことにしました。判官殿(源義経)はとりわけ顔を知られていたので、垢の付いた白い小袖二つに矢筈(矢筈十字紋)を付けた地白の帷子([裏をつけない 衣])に、葛([クズの繊維で作った布])の大口([大口袴]=[裾の口が大きい下袴])群千鳥を摺った柿の衣([山伏の着る、柿の渋で染めた衣])に、古るぼけた頭巾を、目の際まで深くかぶり、戒名を、大和坊と付けました。皆思い思いの格好で出で立ちました。弁慶は大先達([先達]=[山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者])でしたので、袖の短い浄衣に、褐([濃い藍色])の脛巾([旅行や作業などの際、すねに巻きつけてひもで結び、動きやすくしたもの])にごんず([わら草履])を履いて、袴を高く括り、新宮様の長頭巾([垂れを後ろに長く下げ、頭をすっぽり覆う頭巾。熊野新宮の山伏が多く用いた])をかぶりました。岩透という太刀を身にしっかり差して、法螺貝を下げていました。武蔵坊(弁慶)は喜三太という下部([召使い])を強力([荷物持ち])にして、背に負わせた笈([修験者などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱])の足に、猪<猪の目([飾り金具])を彫った鉞で八寸(約24cm)ばかりあるものを括り付けました。天頂には四尺五寸(約135cm)の大太刀を真横様([水平])に付けました。その顔付きも出で立ちも、先達([山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者])に見えました。
(続く)