白い小袖に黄なる大口、直垂の袖を結びて肩に打ち越し、咋日乱したる髪をいまだ梳りもせず、取り上げ、一所に結ひ、烏帽子引き立て押し揉うで、盆の窪に引き入れ、烏帽子懸けを以つて額にむずと結ひて、太刀を取り差し、俯きて見れば、いまだ仄暗くて、物の具の色は見えず、敵は叢々に控へたり。中々中を通りて、紛れ行かばやとぞ思ひける。されども敵甲胃を鎧ひ、矢を矧げて、駒に鞭を進めたり。追ひ掛けて散々に射られんず。薄手負うて死にも遣らず、生けながら六波羅へ捕られなんず。判官のおはする所知らんずらんと問はば、知らずと申さば、さらば放逸に当たれとて糾問せられ、一旦知らずと申すとも、次第に性根乱れなん後はありのままに白状したらば、吉野の奥に留まりて、君に命を参らせたる心ざし無になりなん事こそ悲しけれ。如何にもしてここを逃ればやとぞ思ひける。
忠信(佐藤忠信)は白い小袖([着物])に黄色の大口([大口袴]=[裾の口が大きい下袴])に、直垂([鎧の下に着る着物])の袖を結んで肩に打ち上げ、咋日乱した髪を梳りもせず、持ち上げ、一つに結い、烏帽子をかぶり押し込めて、盆の窪([首の後ろ、付け根あたり])に引き入れ、烏帽子懸け([烏帽子の上からかけ,あごの下で結ぶ緒])で額にしっかり結んで、太刀を差し、伏せて見れば、まだ薄暗くて、物の具([武具])の色は見分けられないものの、敵が点々と群がっていました。忠信はどうにかして中を分けて、逃れようと思いました。けれども敵は鎧を着て、矢を番い、馬に鞭を当てて馳せ来ました。逃れようとすれば追いかけられて散々に射らるに違いない。薄手を負って死にもせず、生きながら六波羅へ捕らえられることだろう。判官(源義経)のおられる所を知っているであろうと尋ねられたら、知らないと答えるほかないが、ならば放逸([手荒く乱暴なこと])せよと糾問([罪や不正を厳しく問いただすこと])を受け、一旦は知らないと答えようが、次第に性根([根気])を失ってありのままに白状することにでもなれば、吉野の山奥に留まって、君(義経)に命を差し出した心ざしが無になると思えば悲しい。なんとしてでもここから逃れようと思いました。
(続く)