さても判官は南都勧修坊の許へおはしましたりけるほどに、勧修坊これを見奉りて、大きに悦び、幼少の時より崇め奉りける普賢、虚空蔵の渡らせ給ひける仏殿に入れ奉りて、様々に労り奉る。折々毎に申されけるは、「御身は三年に平家を亡ぼし給ひ、多くの人の命を失ひ給ひしかば、その罪いかでか逃れ給ふべき。一心に御菩提心を起こさせ給ひて、高野粉河に閉ぢ籠もり、仏の御名を唱へさせ給ひて、
今生幾程ならぬ来世を助からんと思し召されずや」と勧め奉り給ひければ、判官申させ給ひけるは、「度々仰せ蒙り候へども、今一両年もつれなき髻付けてこそつらつら世の有様も見ん」とこそのたまひけれ。
その頃判官(源義経)は南都(奈良)の勧修坊(聖弘)の許を訪ねていました。勧修坊は義経を見て、たいそうよろこんで、義経が幼少の頃より崇めていた普賢(普賢菩薩)、虚空蔵(虚空蔵菩薩)が安置されている仏殿に入れて、様々にもてなしました。勧修坊が折りに付けて申すには、「あなたは三年の間平家を亡ぼし、多くの人の命を失ったのですから、その罪からどうして逃れることができましょう。
一心にご菩提心([衆生が成仏を願う心のこと])を起こして、高野(金剛峰寺)粉河(現和歌山県紀の川市にある粉河寺)にも籠もり、仏の御名を唱えて、今生幾ばくもなく訪れる来世を助かろうとは思われませんか」と出家を勧めましたが、判官(義経)が申すには、「度々お聞きしておることですが、あと一年の間は髻を付けてじっくり世の有様を見ていたいのです」と申しました。
(続く)