人気ブログランキング | 話題のタグを見る

Santa Lab's Blog


「義経記」判官南都へ忍び御出ある事(その8)

御身は都に在京ざいきやうして、四国九国くこく軍兵ぐんびやうを召さんに、などかまゐらで候ふべき。畿内中国の軍兵も一つになりて参るべし。鎮西の菊地、原田はらた松浦まつら臼杵うすき戸次へつぎの者ども召されんずに参らずは、片岡かたをか、武蔵などの荒者あらものどもを差し遣はし、少々追討ついたうし給へ。他所は乱るる事も候ひなん。半国はんごく一つになり、荒乳あらちの中山、伊勢の鈴鹿山を切り塞ぎ、逢坂あふさかの関を一つにして、兵衛ひやうゑすけ殿の代官だいくわん関より西へ入れん事あるべからず。得業とくごも斯くて候へば、興福寺こうぶくじ、東大寺、山、三井寺みゐでら、吉野、十津川とづかは、鞍馬、清水きよみづ一つにして参らせん事は安き事にてこそ候へ。それも叶ふまじく候はば、得業が一度の恩をも忘れじと思ふ者二三百人、彼らを召して城郭じやうくわくを構へ、やぐらを掻き、御内に候ふ一人当千たうぜんつはものどもを召し具して、櫓へ上がりて弓取りて候はば、心かうなる者どもにいくさせさせて、余所にて物を見候ふべし。自然味方亡び候はば、幼少えうせうの時より頼み奉る本尊の御前にて、得業とくご持経ぢきやうせば、御身は念仏まうさせ給ひて、腹を切らせ給へ。得業も剣を身に立てて、後生ごしやうまで連れまゐらせん。今生こんじやうは御祈りの師、来世は善智識ぜんちしきにてこそ候はんずれ」と世に頼もしげにぞまうされける。




義経殿自身は都に在京されて、四国九国の軍兵を集めれば、どうして参らないことがありましょう。畿内中国の軍兵も一つになって参るに違いありません。鎮西の菊地(菊地高直たかなほ)、原田(原田種直たねなほ?種直は平家が亡んだ後、関東に幽閉されていたらしいが)、松浦、臼杵、戸次の者どもが呼んでも参らなければ、片岡(片岡常春つねはる)、武蔵(武蔵坊弁慶)などの荒者([暴れ者])たちを遣わして、少々追討すればよろしい。他所には混乱は及ばないでしょう。半国(日本の西半分)は一つとなり、荒乳の中山([愛発あらち関]=[近江国と越前国の国境に置かれた関所])、伊勢の鈴鹿山([鈴鹿関]=[現三重県鈴鹿市にあった関所])を塞ぎ、逢坂関(現滋賀県大津市にあった関所)ばかりにすれば、兵衛佐殿(源頼朝)の代官を逢坂関より西へ入れる事はありません。わたし得業もその時は、興福寺(現奈良県奈良市にある寺)、東大寺(現奈良県奈良市にある寺)、山(比叡山)、三井寺(現滋賀県大津市にある寺)、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)、十津川(現奈良県吉野郡十津川村)、鞍馬(現京都市左京区にある鞍馬寺)、清水(現京都市東山区にある清水寺)は一つとなって参ることは間違いありません。それも叶わなければ、わたし得業の一度の恩さえ忘れないと思う者を二三百人、彼らを集めて城郭を構へ、櫓を立て、身内であられる一人当千([千人力])の兵たちとともに、櫓へ上がって弓を持たせ、剛の者たちに戦をさせて、余所でご覧になられませ。もし戦で味方が亡んだ時には、義経殿が幼少の時より頼んでおりました本尊の御前で、わたし得業が持経を読み、義経殿は念仏を唱えられて、腹をお切になられませ。わたし得業も剣を身に立てて、後生([あの世])までお連れいたします。今生では御祈りの師でしたが、来世では善智識([善き友、真の友人の意])となりましょうぞ」と頼もしそうに申しました。


続く


by santalab | 2014-02-21 08:34 | 義経記

<< 「義経記」判官南都へ忍び御出あ...      「義経記」判官南都へ忍び御出あ... >>

Santa Lab's Blog
by santalab
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧