判官殿へこの由申されければ、馬に鞭を打ちおはしたり。むなしき体に向かひて歎き給ひけるは、「境遙かの道をこれまで下る事も、入道を頼み奉りてこそ下り候へ。父義朝には二歳にて別れ奉りぬ。母は都におはすれども、平家に渡らせ給へば、互ひに快からず。兄弟ありと雖も、幼少より方々にありて、寄り合ふ事もなく、剰へ頼朝には不和なり。如何なる親の歎き、子の別れと言ふとも、これには過ぎじ」と悲しみ給ふ事限りなし。ただ義経が運の窮むるところとて、さしも猛き心を引き替へて歎き給ひけり。亀割山にて生まれ給へる若君も、判官殿と同じ様に白衣を召して、野辺の送りをし給へり。見奉るにいとど哀れぞ勝りける。同じ道にと悲しみ給へども、むなしき野辺はただ独り、送り捨ててぞ帰り給ひぬ。哀れなりし事どもなり。
判官殿(源義経)に秀衡(藤原秀衡)が亡くなったことを伝えると、義経は馬に鞭打って急ぎやって来ました。むなしい体に向かって悲しみ申すには、「国境を遥々越えてここまで下ったのも、入道(秀衡)を頼りに思ってのことだ。父義朝(源義朝)とは二歳で死に別れた。母(常盤御前)は都におられるが、平家の許に移られて、互いに気まずく思っておられるだろう。兄弟はいるが、幼少より所々に離れ離れになって、寄り添うこともなく、その上頼朝とは不仲である。どんな親の嘆き、子との別れと言えども、今の別れには及ばない」と悲しむこと限りありませんでした。ただ義経の運が尽きたと、猛々しい心に代えて嘆き悲しみました。亀割山(山形県最上郡最上町)で生まれた若君も、判官殿(義経)と同じように白衣を着て、野辺送り([死者を火葬場または埋葬地まで見送ること])をしました。義経は野辺送りの者たちを見ていっそう悲しさが勝りました。義経は同じ道にと悲しみましたが、むなしい野辺にただひとり、秀衡を送り残して帰りました。哀れなことでした。
(続く)