この子どもより先に嫡子西木戸太郎国衡とて、極めて丈高く、由々しく芸能も優れ、大の男の剛の者、強弓精兵にて、謀賢くあるを、嫡子に立てたりせばよかるべきに、男の十五より内に儲けたる子をば、嫡子に立てぬ事なりとて、当腹二男を嫡子に立てける。入道思へば敢へなかりけり。この基成は判官殿に浅からず申し承り候はれけり。この事ほのかに聞きて、浅ましく思ひて、孫どもを制せばやと思はれけれども、恥づかしくも所領を譲りたる事もなし。我さへ彼らに預けられたる身ながら勅勘の身なり。院宣下る上、何と制するとも適ふまじ。余り思へば悲しくて、判官殿へ消息を奉る。「殿を関東より討ち奉れとて院宣下りぬ。この間の狩りをば栄耀の狩りと思し召すや。命こそ大切に候へ、一先づ落ちさせ給ふべくもや候ふらん。殿の親父義朝は、舎弟信頼に与みせられ、謀反の為に同科の死罪に行はれ給ひぬ。また基成東国に遠流の身となり、御辺もこれに御渡り候へば、知愚の縁深かりけると思ひ知られて候ひつるに、また後れ参らせて、歎き候はん事こそ口惜しく候へ。同道に御供申し候はんこそ本意にて候ふべきに、年老ひ、身甲斐々々しく候はで、甲斐なき御孝養を申さん事行くも止まるも同じ道」と掻き口説き、泣く泣く遣はされけり。
これらの子どもより前に嫡子西木戸太郎国衡(西木戸国衡。秀衡の側室の子)と言う、たいそう背が高く、芸能にも勝れた、大男で剛の者がいました、強弓の精兵([弓を引く力の強い者])で、計略にも長けていたので、嫡子にすればよかったのに、男が十五歳になる前に儲けた子を、嫡子には立てないということで、当腹([今の妻の腹から生まれた者])である二男(藤原泰衡)を嫡男にしたのでした。入道(藤原秀衡)もつまらないことをしたものです。基成(藤原基成)は判官殿(源義経)と浅からぬ付き合いでした。基成は泰衡が頼朝に同心したことをほのかに聞いて、情けなく思って、孫たちを止めようと思いましたが、恥ずかしいことに所領([領地])を譲ったこともありませんでした。基成自身も孫たちに預けられた勅勘([天皇から受ける咎め])の身でした。院宣([上皇の命令])が下された以上、何として止めようとしても無駄なことでした。義経を思えばあまりにも悲しくて、判官殿(義経)に文を贈りました。「殿(義経)を関東より討ち取れという院宣が下りました。この間の狩りを栄耀([栄え])の狩りと思わないでください。命こそ大切になさいませ。ひとまずはお逃げになるのがよろしいでしょう。殿の親父であられた義朝(源義朝)殿は、わたしの弟である信頼(藤原信頼)に味方し、謀反のために弟と同科([同じ罪に処すること])の死罪となられました。またわたし基成は東国に遠流の身となり、殿もこちらにこられて、知愚([知者と愚者])の縁ではございますが深いものがあるものと思っておりましたが、また殿に遅れて、嘆くことになることがつらいのです。同道([連れ立って行くこと])のお供をするのが本意でございますが、わたしは年老いて、身が思うようになりません、甲斐もない孝養([追善供養])をいたせば行くも止まるも同じ道だと思っております」と何度も何度も申して、泣く泣く使いを遣りました。
(続く)