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「義経記」秀衡が子供判官殿に謀反の事(その5)

この子どもより先に嫡子西木戸太郎国衡くにひらとて、きはめて丈高く、由々しく芸能も優れ、大のをとこかうの者、強弓つよゆみ精兵せいびやうにて、はかりこと賢くあるを、嫡子に立てたりせばよかるべきに、男の十五より内にまうけたる子をば、嫡子に立てぬ事なりとて、当腹たうばら二男を嫡子に立てける。入道にふだう思へば敢へなかりけり。この基成もとなり判官はうぐわん殿に浅からずまううけたまはさうらはれけり。この事ほのかに聞きて、浅ましく思ひて、孫どもを制せばやと思はれけれども、恥づかしくも所領しよりやうゆづりたる事もなし。我さへ彼らにあづけられたる身ながら勅勘の身なり。院宣ゐんぜん下るうへ、何と制するとも適ふまじ。余り思へば悲しくて、判官殿へ消息せうそくを奉る。「殿を関東くわんとうより討ち奉れとて院宣下りぬ。このあひだの狩りをば栄耀ええうの狩りと思し召すや。命こそ大切にさうらへ、一先づ落ちさせ給ふべくもや候ふらん。殿の親父しんぷ義朝よしともは、舎弟信頼のぶよりみせられ、謀反の為に同科どうくはの死罪に行はれ給ひぬ。また基成もとなり東国に遠流をんるの身となり、御辺ごへんもこれに御渡り候へば、知愚ちぐの縁深かりけると思ひ知られて候ひつるに、また後れまゐらせて、歎き候はん事こそ口しく候へ。同道どうだうに御供まうし候はんこそ本意にて候ふべきに、年老ひ、身甲斐々々かひがひしく候はで、甲斐なき御孝養けうやうを申さん事行くも止まるも同じ道」と掻き口説き、泣く泣く遣はされけり。




これらの子どもより前に嫡子西木戸太郎国衡(西木戸国衡。秀衡ひでひらの側室の子)と言う、たいそう背が高く、芸能にも勝れた、大男で剛の者がいました、強弓の精兵([弓を引く力の強い者])で、計略にも長けていたので、嫡子にすればよかったのに、男が十五歳になる前に儲けた子を、嫡子には立てないということで、当腹([今の妻の腹から生まれた者])である二男(藤原泰衡やすひら)を嫡男にしたのでした。入道(藤原秀衡)もつまらないことをしたものです。基成(藤原基成)は判官殿(源義経)と浅からぬ付き合いでした。基成は泰衡が頼朝に同心したことをほのかに聞いて、情けなく思って、孫たちを止めようと思いましたが、恥ずかしいことに所領([領地])を譲ったこともありませんでした。基成自身も孫たちに預けられた勅勘([天皇から受ける咎め])の身でした。院宣([上皇の命令])が下された以上、何として止めようとしても無駄なことでした。義経を思えばあまりにも悲しくて、判官殿(義経)に文を贈りました。「殿(義経)を関東より討ち取れという院宣が下りました。この間の狩りを栄耀([栄え])の狩りと思わないでください。命こそ大切になさいませ。ひとまずはお逃げになるのがよろしいでしょう。殿の親父であられた義朝(源義朝)殿は、わたしの弟である信頼(藤原信頼)に味方し、謀反のために弟と同科([同じ罪に処すること])の死罪となられました。またわたし基成は東国に遠流の身となり、殿もこちらにこられて、知愚([知者と愚者])の縁ではございますが深いものがあるものと思っておりましたが、また殿に遅れて、嘆くことになることがつらいのです。同道([連れ立って行くこと])のお供をするのが本意でございますが、わたしは年老いて、身が思うようになりません、甲斐もない孝養([追善供養])をいたせば行くも止まるも同じ道だと思っております」と何度も何度も申して、泣く泣く使いを遣りました。


続く


by santalab | 2014-02-25 00:02 | 義経記

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