弥勒堂の東、大日堂の上より見渡せば、寺中騒動して、大衆南大門に僉議し、上を下へ返したる。宿老は講堂にあり、小法師ばらは僉議の中を退つて
逸りける。若大衆の鉄漿黒なるが、腹巻に袖付けて、兜の緒を締め、尻篭の矢、筈下りに負ひなして、弓杖に突き、長刀手々に提つ下げて、宿老より先に立ち、百人ばかり山口にこそ臨みけれ。弁慶これを見て、あはやと思ひ、取つて返して、中院谷に参りて、「騒ぐまでこそ難からめ。敵こそ矢比になりて候へ」と申しければ、判官これを聞き給ひて、「東国の武士か吉野法師か」と仰せられければ、「麓の衆徒にて候ふ」と申しければ、「さては敵ふまじ。それらは所の案内者なり。健者を先に立てて、悪所に向かひて追ひ掛けられて叶ふまじ。誰かこの山の案内を知りたる者あらば、先立て一先づ落ちん」と仰せられける。
弁慶が弥勒堂の東にある、大日堂の上から見渡せば、寺中騒ぎ合って、大衆([僧])は南大門で僉議し、ごった返していました。宿老([年寄り])は講堂([講義・説経などを行う建物])にいて、小法師たちは僉議を取り巻いて勇み立っていました。若大衆で鉄漿黒([お歯黒])をつけた者が、腹巻([鎧])に袖を付けて、兜の緒を締め、尻篭([矢を入れて携帯する道具])の矢を、筈下り(矢筈=矢の弓に番える部分。を下)に負い、弓杖を突き、長刀手々に提っ下げて、宿老の先に立ち、百人ばかりで山口に向かっていました。弁慶はこれを見て、すぐに知らせなくてはと思って、取って返し、中院谷に戻って、「大変です。敵がすぐそこまで攻めて来ています」と申せば、判官(源義経)はこれを聞いて、「東国の武士か吉野法師か」と訊ねました、弁慶が「麓の衆徒([僧])です」と申すと、義経は「ならば敵うまい。それらはこの山をよく知っている。健者([強か者]=[強く勇猛な者])を先に立てて、悪所に向かって追い掛けられたら勝ち目はない。誰かこの山をよく知る者があれば、敵が来る前にひとまず落ちよう」と申しました。
(続く)