忠信申しけるは、「様にこそより候はんずれ。大衆押し寄せて候はば、箙の矢を散々に射尽くし、矢種尽きて、太刀を抜き、大勢の中へ乱れ入り斬りて後に、刀を抜き、腹を切り候はん時、『まことにこれは九郎判官と思ひ参らせ候はんずるなり。実には御内に佐藤四郎兵衛と言ふ者なり。君の御号を借り参らせて、合戦に忠を致しつるなり。首を持つて鎌倉殿の見参に入れよ』とて、腹掻き切り死なん後は、君の御号も何か苦しく候はん」とぞ申しける。「もつとも最後の時、斯様にだに申し分けて死に候ひなば、何か苦しかるべき、殿ばら」と仰せられて、清和天皇の御号を預かる。これを現世の名聞、後世の訴へとも思ひける。
忠信(佐藤忠信)が申すには、「君(源義経)と欺くためでございます。大衆([僧])が押し寄せて、箙([矢を入れる容器])の矢を散々に射尽くし、矢も尽きて、太刀を抜き、大勢の中へ乱れ入り斬った後に、刀を抜き、腹を切る時、『わたしを九郎判官(義経)と思え。本名は身内の佐藤四郎兵衛(忠信)という者である。君(義経)の名を借りて、合戦に忠を致す者である。首を持って鎌倉殿(源頼朝)のお目にかけよ』と申して、腹を掻き切り死んだ後に、君の名を汚すことはございません」と申しました。義経も「もっとも最後の時、このように申して死ぬのならば、何の不都合のなかろう、殿たちよ」と申したので、忠信は清和天皇の名(源氏)を預かることになりました。これは現世の名聞([世間での評判・名声])、後世への訴えとも思えました。
(続く)