川連の
法眼楯の
面に進み出でて、
大音上げて
申しけるは、「そもそもこの山には鎌倉殿の御弟
判官殿の渡らせ給ひ
候ふ由
承りて、吉野の
執行こそ罷り向かひ候へ。
私らは、何の遺恨候はねば、一先づ落ちさせ給ふべく候ふか、また討ち死に遊ばし候はんか。
御前に
誰がしが御渡り候ふ。良き
様に申され候へや」と
賢々しげに申したりければ、
四郎兵衛これを聞きて、「あら事も愚かや、
清和天皇の
御末、九郎判官殿の御渡り候ふとは、今まで御辺たちは知らざりけるか。日来
好みあるは、
訪ひ
参らせたらんは、何の苦しきぞ。人の讒言に依つて鎌倉殿御仲
当時不和におはしますとも、
冤なれば、などか思し召し
直し給はざらん、あはれ
末の大事かな。仔細を向かうて聞けと言ふ御使ひ、何者とか思ふらん。鎌足の内大臣の
御末、淡海公の
後胤、佐藤
左衛門憲高には孫、
信夫の
庄司が次男、四郎兵衛の
尉藤原の
忠信と言ふ者なり。後に論ずるな、確かに聞け、吉野の
小法師ばら」とぞ言ひける。
川連法眼は楯の前に進み出て、大声上げて申すには、「我らがやって来たのはこの山には鎌倉殿(源頼朝)の弟であられる判官殿(源義経)がおられると聞いて、吉野の執行([寺社で諸務を行う僧の中の上首])自ら参ったものである。我らには、何の遺恨もない、ひとまず落ちられるか、それともここで討ち死になされるか。我らの御前におられるのは何と申す者ぞ。思うままに申されよ」と威勢を含んで申したので、四郎兵衛(佐藤忠信)はこれを聞いて、「愚か者め、清和天皇の子孫であられる、九郎判官殿(義経)がおられることを、今までお主たちは知らなかったのか。日頃より親しくしたいと思って、やって参ったのなら、歓迎しよう。人(梶原景時)の讒言によって鎌倉殿(頼朝)との仲は今は不和であられるが、冤罪であれば、
どうして思い直されないことがあろうか、最後は仲直りなされる。わたしの申すことを聞く使いの者よ、わたしを誰と思っておる。鎌足内大臣(藤原鎌足)の末孫、淡海公(藤原不比等)の後胤([子孫])、佐藤左衛門憲高の孫(かなり怪しい)、信夫庄司(佐藤基治)の次男、四郎兵衛尉藤原忠信(=佐藤忠信)という者だ。あとで義経殿ではないとか申すなよ、正しく聞け、吉野の小法師たちよ」と申しました。
(続く)