忠信弓杖突きて立ちたるを、弓手の太刀打ちをば射て射越し、後ろの椎の木に沓巻責めて立つ。四郎兵衛これを見て、はしたなく射たるものかな、保元の合戦に鎮西の八郎御曹司の、七人張りに十五束を以つて遊ばしたりしに、鎧着たる者を射貫き給ひしが、それは上古の事末代には如何でかこれほどの弓勢あるべしとも思えず、一の矢射損じて、二の矢をば直中を射んとや思ふらん。胴中射られて叶はじと思ひければ、尖矢を差し矧げて当てては、差し許し差し許し二三度しけるが、矢比は少し遠し、風は谷より吹き上ぐる、思ふ所へはよも行かじ、たとひ射当てたりとも、大力にてあるなれば、鎧の下に札良き腹巻などや着たるらん、裏掻かせずしては、弓矢の疵になりなん、主を射ば射損ずる事もあるべし、弓を射ばやとぞ思ひける。大唐の養由は、柳の葉を百歩に立て、百矢を射けるに百矢は当りけるとかや。我が朝の忠信は、笄を五段に立てて射外さず。まして弓手の者をや。矢比は少し遠けれども、何射外すべきとぞ思ひける。
忠信(佐藤忠信)は弓杖を突いて立っていましたが、弓手([左手])の太刀打ち([槍の口金から血溜まりまでの称])を射越し、後ろの椎の木に沓巻([矢の篦の先端で、鏃をさし込んだ口もとを固く糸で巻き締めてある部分])まで刺さりました。四郎兵衛(忠信)はこれを見て、なんとも下品に矢を射る奴だ、保元の合戦(保元の乱(1156))で鎮西八郎(源為朝)の御曹司が、七人張りに十五束の矢を射て、鎧を着た者を射貫いたが、それは上古のこと末代にはこれほどの弓勢([強弓])の者がいるとも思えず、一の矢を射損じたなら、二の矢を真ん中を射抜こうと思っているだろう。胴中は射られては堪らないと思って、尖矢を差し番えて、狙いを定めようとしましたが、矢の距離には少し遠く、風は谷より吹き上げていたので、狙う所へは飛ばない、たとえ射が当たったところで、大力であれば、鎧の下に札の良い腹巻([鎧])などを着ているだろう、裏を通さずは、弓矢取りの恥となろうと思いましたが、主を射ようとすれば射損ずることもあろうが、ともかく弓を射ることにしました。大唐の養由(養由基。唐ではなく春秋時代の弓の名人)は、柳の葉を百歩の所に立て、百矢を射て百矢当てたとか。我が朝の忠信は、笄([日本髪用の髪飾。もと髪をかき分ける用具で男女とも用いた])を五段(五反。約50m)の所に立てて射外すことはありませんでした。まして弓手([左手])の者を外すことは考えられませんでした。矢比は少し遠くありましたが、どうして射外すことがあるかと思いました。
(続く)