「ともかくもなりぬと聞こし召されば、跡を弔はせ給へ。もし永らへていかなる野の末、山の奥にもありと聞き給はば、訪ひ渡らせ給へ」と、泣く泣く思ひ切りて出で給ふ。この別れを物に譬ふれば、釈尊入滅の時十六羅漢、五百人の御弟子、五十二類に至るまで悲しみ奉りしも、いかでかこれには勝るべき。かくて得業北条に具せられて、平の京へ入り給ふ。六条の持仏堂に入れ奉りて、様々にぞ労り奉る。江馬の小四郎申されけるは、「何事をも思し召し候はば、承り候ひて、南都へ申すべく候ふ」と申されければ、「何事をか申すべき。ただしこの辺に年来知りたる方候ふ。これへ参り候ふを聞きては尋ぬべき人に候ふが、来たられ候はぬは、如何様にも世に憚りをなし候ひてと思え候ふ。苦しかるまじく候はば、この人に見参し下らばや」と仰せられければ、義時「御名をば何と申すぞ」。「元は黒谷に居られ候ふ。このほどは東山に法然房」と仰せられければ、「さては近き所におはしまし候ふ上人の御事候ふ」とて、やがて御使ひを奉る。
「わたしがどうにでもなったと聞かれた時には、菩提を弔ってほしい。もし命永らえてどのような野末、山奥にもいると聞いたなら、訪ねて来てほしい」と、泣く泣く覚悟を決めて旅立ちました。この別れを例えるならば、釈尊(釈迦)が入滅([釈迦の死])の時十六羅漢([釈迦の命により、この世に長くいて正法を守り、衆生を導く十六人の大阿羅漢])、五百人の弟子、五十二類([五十二類釈迦入滅の時、集まって悲しんだという五十二種類の生き物])にいたるまで悲しんだ悲しみも、これに勝るとも思えませんでした。こうして得業(聖弘)は北条(北条時政)に連れられて、平京([平安京])へ入りました。時政は聖弘を六条の持仏堂([朝夕その人が信仰し礼拝する仏像を安置しておく建物、または部屋])に入れて、様々にもてなしました。江馬小四郎(北条義時。時政の次男)が申すには、「お望みがございますれば、何なりとお申し付けください、南都(奈良)へお伝えいたします」と申せば、聖弘は「申すべきことはありません。ただしこの近くに長年見知った方がおります。わたしがここにいることを知れば訪ねるであろう人ですが、来られないのは、きっと世に憚ってのことに思えます。差し支えがないのであれば、この方にお会いして東国に下りたいのです」と申せば、義時は「名を何と申します」と訊ねました。聖弘は「以前は黒谷(現黒谷京都市左京区にある青竜寺)におられました。今は東山(現京都市東山区にある安養寺)におられる法然房と申す方です」と申したので、義時は「ほど近い所におられる上人のことでございましたか」と申して、すぐに使いを遣りました。
(続く)