『四国九国の者を召し候へ。東大寺、興福寺は得業が計らひなり。君は天下に御覚えもいみじくて、院の御感にも入らせて候へば、在京して日本を半国づつ知行し給へ』と勧め申せしかども、得業が心を景迹して出で給へば、中々恥かしくこそ思ひ奉り候ひしか。君にも知られぬ宮仕ひにては候へども、殿の御為にも祈りの師ぞかし。平家追討の為に西国へ赴き給ひしに、渡辺にて源氏の祈りしつべき者やあると尋ねられ候ひけるに、如何なる痴の者か見参に入りて候ふらん、得業を見参に入れて候ひければ、平家を呪咀して源氏を祈れと仰せられ候ひしに、その罪遁れなんと度々辞退申ししかば、『御坊も平家と一つになるか』と、仰せられ候ひし恐ろしさに、源氏を祈り奉りし時も、『天に二つの日照らし給はず、二人の国王なし』とこそ申し候へども、我が朝を御兄弟手に握り給へとこそ祈り参らせしに、判官は生まれつき不得の人なれば、遂に世にも立ち給はず、日本国残る所なく、殿一人して知行し給ふ事、これは得業が祈りの感応するところにあらずや。これにより外は、如何に糾問せらるるとも、申すべき事こと候はず。型の如くも智慧ある者に、物を思はするは、何の益あるべき。如何なる人承りにて候ふぞ、疾く疾く首を刎ねて、鎌倉殿の憤りを休め奉り給へや」と残るところなくのたまひて、はらはらと泣き給へば、心ある侍ども、袖を濡らさぬはなし。頼朝も御簾をざと打ち下ろし給ひて、万事御前静まりぬ。
『四国九国の者を集めなさいませ。東大寺(現奈良県奈良市にある寺)、興福寺(現奈良県奈良市にある寺)は得業に従う。君(源義経)は天下(後鳥羽天皇)に重用され、院(後白河天皇)にも親しまれておりますれば、在京して(源頼朝と)日本を半国ずつ知行せよ』と勧め申しましたが、わたし得業の心を景迹([推量すること])して出て行かれましたので、かえって恥かしく思っていたのです。君にも知られていない宮仕えの身ではございますが、殿(頼朝)にとりましても祈りの師なのです。平家追討のために西国へ赴かれましたが、渡辺(現大阪市北区・中央区あたり)で源氏の祈りをする者がいるかと探されたことがございました、どれほどの愚か者と思われたのでしょうか、わたし得業と面会されて、平家を呪咀して源氏を祈れと申されたので、その罪から遁れようと度々辞退申しておりましたが、『御坊も平家の味方をするのか』と、申されたので恐ろしくなって、源氏を祈り申し上げましたが、『天に二つの日が照らすことはないように、二人の国王はいらない』と申されましたので、我が朝をご兄弟の手に握られますようにと祈りました、判官(義経)は生まれつき不得の人(世に許されない者)で、遂に世に立たれることもなく、日本国は残る所なく、殿一人が知行されておられるのも、わたし得業が祈りに感応([信心が神仏に通じること])したものではございませんか。この外は、如何に糾問([厳しく問いただすこと])されましても、申すことはございませんぞ。人並みに智慧のある者を、苦しめて、何の徳になりましょう。さあ誰が介錯されるのです、一刻も早く首を刎ねて、鎌倉殿(頼朝)の怒りを鎮められなさいませ」と残すところなく申して、はらはらと泣いたので、心ある侍たちで、袖を濡らさぬ者はいませんでした。頼朝も御簾をさっと打ち下ろして、御前は静かになりました。
(続く)