ややありて、「人や候ふ」と仰せられければ、佐原の十郎、和田の小太郎、畠山三人御前に畏まつてぞ候ひける。鎌倉殿、高らかに仰せられけるは、「かかる事こそなけれ。六波羅にて尋ね聞くべかりし事を、梶原申すに付けて、御坊をこれまで呼び下し奉りて、散々に悪口せられ奉りたるに、頼朝こそ返事に及ばず、身の置き所なけれ。あはれ人の陳状や、もつともかくこそ陳じたくはあれ、まことの上人にておはしましける人かな。理にてこそ日本第一の大伽藍の院主ともなり給ひけれ、朝家の御祈りにも召されける、理」とぞ感ぜられける。「この人をせめて鎌倉に三年留め奉りて、この所を仏法の地となさばや」と仰せければ、和田の小太郎、佐原の十郎承り、勧修坊に申しけるは、「東大寺と申すは、星霜久しくなりて利益候ふ所なり。今の鎌倉と申すは、治承四年の冬の頃始めて建てし所なり。十悪五逆、破戒無慙の輩のみ多く候へば、これにせめて三年渡らせおはしまして、御利益候へと申せと候ふ」と申したりければ、得業「仰せはさる事にて候へども、一両年も鎌倉にありたくも候はず」とぞ仰せられける。重ねて仏法興隆の為にて候ふと申されければ、「さらば三年はこれにこそ候はめ」と仰せられけり。
しばらくあって、頼朝が「人はいるか」と申せば、佐原十郎(佐原義連)、和田小太郎(和田義盛)、畠山(畠山重忠)の三人が御前に畏まりました。鎌倉殿(源頼朝)は、怒鳴って、「こんなに恥をかかされたのは初めてぞ。六波羅で訊ね聞けばすむものを、梶原(梶原景時)があれこれ申したので、御坊(勧修坊=聖弘)をわざわざ鎌倉まで呼び出して、散々に悪口を聞くことになった、わたし頼朝は何も答えられなかった、身の置き所もないほどだ。陳状というものは、謝ってしかるべきのものだが、悪口を聞くことになろうとはまさしく上人であられるお方ぞ。道理ではあるが日本第一の大伽藍(現奈良県奈良市にある東大寺)の院主([監寺]=[住持に代わって寺内の事務を監督する役職])ともなり、朝家の祈りにも呼ばれるのも、当然のこと」と感心しました。「この人(聖弘)をせめて鎌倉に三年留め置いて、この場所を仏法の地としたい」と申せば、和田小太郎(和田義盛)、佐原十郎(佐原義連)が承り、勧修坊(聖弘)に申すには、「東大寺と申す寺は、星霜([年月])久しく利益([ 仏・菩薩が人々に恵みをあたえること])の所でございます。今の鎌倉は、治承四年(1180)の冬頃に始めて建てられた場所なのです。十悪([身・口・意の三業がつくる十種の罪悪])五逆([五種の最も重い罪])、破戒([戒律を破ること])無慙([戒律を破って心に少しも恥じるところがないこと])の者ばかり多い所です、ここにせめて三年留まられて、ご利益を賜るようにと申されております」と申せば、得業は「申されることは分かりますが、一年なりとも鎌倉にいたくはありません」と申しました。重ねて仏法興隆のためでございますと申せば、「ならば三年の間ははここにいることにいたしましょう」と申しました。
(続く)