国王御命を助かり給ひて、我が国へ帰りて、五十六万騎の勢を揃へて、今度の合戦に打ち勝つて、悦び重ね給ひしも、履を逆様に履き給ひし謂はれなり。異朝の賢王もかくこそましませしか、君は本朝の武士の大将軍、清和天皇の十代の御末になり給へり。『敵奢らば我奢らざれ。敵奢らざる。我奢れ』と申す本文あり、人をば知るべからず、弁慶に於いては」とて、真つ先に履いてぞ進みける。判官これを見給ひて、「奇異の事を見知りたるや。いづくにてこれをば習ひけるぞ」と仰せられければ、「桜本の僧正の許に候ひし時、法相三論の遺教の中に書きて候ふ」と申しけり。「あはれ文武二道の碩学や」とぞ讚めさせ給ふ。
国王は命を助かって、我が国へ帰り、五十六万騎の勢を揃えて、今度は合戦に打ち勝って、よろこんだそうだが、これが履を逆様に履くいわれぞ。異朝の賢王もなされたことです、君(源義経)は本朝の武士の大将軍、清和天皇の十代の子孫であられます。『敵が強ければ決して奢ってはならぬ。敵が臆した時。奢れ』と申す本文がある、人がどう思っているかは知らない、けれどわたし弁慶はそれを信じる」と申して、真っ先に履を逆様に履いて進みました。判官(源義経)はこれを見て、「弁慶は不思議な話を知っている。どこで覚えたのだ」と申せば、「桜本僧正の許にいた時、法相([法相宗]=[中国創始の仏教の宗派の一つ])三論([三論宗]=[仏教の宗派の一つ])の遺教([遺教経]=[中国の漢訳仏典の一つ])の中に書いてありました」と申しました。義経は「なんと文武二道の碩学([修めた学問の広く深い人])なのだ」と讚めました。
(続く)