鎌倉殿、「白拍子は興醒めたるものにてありけるや。今の舞ひ様、歌の歌ひ様、怪しからず。頼朝田舎人なれば、聞き知らじとて歌ひける。『賎のをだまき繰り返し』とは、頼朝が世尽きて九郎が世になれとや。あはれおほけなく思えし人の跡絶えにけりと歌ひたりければ、御簾を高らかに上げさせ給ひて、軽々しくも讚めさせ給ふものかな」。二位殿より御引出物色々賜はりしを、判官殿御祈りの為に若宮の別当に参りて、堀の藤次が女房もろともに打ち連れてぞ帰りける。明くれば都にとて上り、北白川の宿所に帰りてあれども、物をもはかばかしく見入れず、憂かりし事の忘れ難ければ、問ひ来る人も物憂しとて、ただ思ひ入りてぞありける。
鎌倉殿(源頼朝)は、「白拍子([平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞])はつまらん。今の舞、歌にしろ、まったくこのわたしをばかにしておる。この頼朝を田舎人だと、聞いたこともないと思って歌ったのだろう。『賎のをだまき繰り返し』とは、頼朝のが尽きて九郎(源義経)の世になればよいのにということか。ああ立派なお方でしたのに今はいずこにと歌えば、頼朝は御簾を高らかに上げさせて、あんな奴(源義経)のことを誉めるとは」と申しました。二位殿(北条政子)より引出物を色々賜わりましたが、判官殿(義経)祈念のために若宮(現神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮若宮)の別当に参らせてて、堀藤次(堀親家)の女房たちとともに帰りました。夜が明ければ都に帰ると申して上り、北白川の宿所に帰りましたが、ただぼんやりと眺め暮らして、悲しみを忘れることもできず、訪ね来る人と会うのもつらいと、ただふさぎ込んでいました。
(続く)