何の御用と問はれて少々ためらひしが、「今宵の御宴の果てに春鶯囀を舞はれし女子は、いづれ中宮の御内ならんと見受けしが、名は何と言はるるや」。老女は男の容姿をしばし眺め居たりしが微笑みながら、「さても笑止の事もあることかな、西八条を出づる時、色清げなる人の妾を捉へて同じ事を問はれしが、あれは横笛とて近き頃御室の郷より雑仕に見えし者なれば、知る人なきも理にこそ、御身は名を聞いて何にし給ふ」。男はハツと顔赤らめて、「優れて舞ひの上手なれば」。答ふる言葉聞きもしまはらで、老女は「ホホ」と意味ありげなる笑みを残して門内に走り入りぬ。
何のご用でしょうと問われて侍は少しためらいましたが、「今宵の御宴の終わりに春鶯囀を舞った女子は、おそらく中宮(平徳子)に仕える者ではないかと思うが、名は何という」と訊ねました。老女は男の表情をしばらく眺めていましたが微笑んで、「それにしてもおかしな事があるものです、西八条を出る時、美しい男の人がわたしを呼び止めて同じ事をお聞きになられましたが、あれは横笛と申して最近御室(今の京都市左京区にある仁和寺。後白河院御所)の郷より雑仕([下級女官])に来ている者ですので、知る人がいないのも当然のことですが、あなたは名を聞いてどうなさるおつもりですか」。侍はハッと顔を赤らめて、「とても舞いが上手だったので」。侍が答える言葉を聞き終わらないうちに、老女は「ホホ」と意味ありげな笑みを残して内裏の門内に走り入りました。
(続く)