時は治承の春、世は平家の盛り、そも天喜、康平以来九十年の春秋、都も鄙も打ち靡きし源氏の白旗も、保元、平治の二度の戦を都の名残りに、脆くも武門の哀れを東海の隅に留めしより、六十余州に至らぬ隈なき平家の権勢、「驕る者久しからず」とは驕れる者いかで知るべき。養和の秋、富士川の水鳥も、まだ一年の来ぬ夢なれば、一門の公卿殿上人は言はずもあれ、上下の武士いつしか文弱の流れに染みて、かつて丈夫の誉れに見せし向かう傷も、いつの間にか水鬢の陰に覆はれて、重きを誇りし丸打ちの野太刀も、いつしか白金造りの細鞘に反りを打たせ、清らなる布衣の下に練貫の袖さへ見ゆるに、弓矢持つべき手に管弦の調べとは、言ふもうたてき事なりけり。
時は治承(1177~1181)の春、世は平家の盛りでした、そもそも平家が栄華を極めたのは天喜(1053~1158)、康平(1058~1065)以来九十年間、都にも田舎にも靡いていたのは源氏の白旗でしたが、保元(保元の乱(1156))平治(平治の乱(1159))の二度の戦を都の名残りとして、辛くも武門の哀れを東海の隅(平治の乱により、源頼朝は伊豆国に流罪となりました)に留められてからのことでした、六十余州に平家の勢力が及ばない場所はありませんでした、「驕れる者久しからず」ということを驕れる平家がどうして知りましょう。養和(1181~1182)の秋、富士川の水鳥(富士川の戦い(1180)で平家は源頼朝軍と対峙しましたが、合戦の前夜、富士川からいっせいに飛び立った水鳥の羽音に源氏勢ではないかと恐れて、戦いを前にして平家はちりぢりに退散しました)も、まだ来ぬ夢のことでしたので、平家一門の公卿殿上人は言うまでもなく、身分の上下にかかわらず武士たちはいつしか文弱([学問や芸事にばかりふけっていて弱々しいこと])の流れに染まって、かつて丈夫([強く勇ましい男])の名誉に見えた向こう傷([敵と戦って体の前面に受けた傷])も、いつの間にか水鬢([水で撫で付けた髪])の陰に隠されて、重さを誇った丸打ち([戦闘用の断面が楕円の太刀])の太刀も、いつしか白金造り([銀で装飾を施したもの])の細鞘に反りを打たせて、美しい着物の下に練貫([平織りの絹織物])の袖さえ見せていました、本来弓矢を持つべき手で管弦を弾くとは、言うまでもないことですが嘆かわしく思えました。
(続く)