歌物語に何の戯言と聞き流せし恋てふ魔に、さては我疾くより魅せられしかと、初めて悟りし今の刹那に、滝口が心はいかなりしぞ。「ああ過てり」とは何より先に口を衝いて思えず出でし意料無限の一言、襟元に雪水を浴びし如く、六尺の総身ぶるぶると震ひ上りて、胸轟き、息せはしく、「むむ」とばかりにしばしは空を睨んで無言の体。やがて目を閉じてつくづく過ぎ越し方を想ひ返せば、哀れにもつらかりし思ひの数々、さながら世を隔てたらん如く、今さら明かし暮らせし朝夕のいかにしてと驚かれぬる計り。夢かと思へば、現せ身の陽炎の影とも消えやらず、現かと見れば、夢よりもなほ淡きこの春秋の経過、例へば氷の病ひに本性を失ひし人の、やうやく我に還りしが如く、滝口はただただ恍惚として呆るるばかりなり。
歌物語に何の戯言と聞き流していた恋という悪魔に、されば我はすでに魅せられていたのかと、初めて知った刹那([一瞬])に、滝口(斎藤時頼)は何を思ったのでしょう。「何と言うことか」とは何よりも先に口を衝いて思わず出た意料([思いはかること])も遠く及ばない一言でしたが、滝口は襟元に雪水を浴びせられたかのように、六尺(約1.8m)の体全体がぶるぶると震え上がって、胸は音を立てて騒ぎ、絶え間なく息をして、「むむ」とばかりにしばらく空を睨んで無言のままでした。やがて目を閉じてつくづく今までのことを思い返してみれば、悲しくつらい思いの数々が、まるで別の世のことのように思えて、滝口は今さらに朝夕をどのように明かし暮らしてきたのだろうかと驚きました。夢かと思いましたが、この世に生きる我が身は陽炎のように消えることもなく、かといって現と思えば、夢よりもなおおぼろげなこの春から秋への移り変わり、例えるなら凍りついて正気を失った者が、ようやく我に還って、滝口はただただ朦朧とする意識の中で唖然とするばかりでした。
(続く)