世に畏るべき敵に遇はざるし滝口も、恋てふ魔神には引く弓もなきに呆れ果てぬ。無念と思へば心いよいよ乱れ、心いよいよ乱るるにつれて、乱脈打てる胸の中に迷ひの雲はいよいよ広がり、果ては狂気の如くいらちて、時ならぬ鳴弦の響き、剣戟の声に胸中の混沌を清まさんと努むれども、心糸にあらざれば見れども見えず、聞けども聞こえず、命の陰に蹲る一念の恋は、玉の緒ならで断たん術もなし。
世に恐るべき敵に遇ったこともなかった滝口(斎藤時頼)でしたが、恋という魔神には引く弓もなく途方に暮れるばかりでした。無念と思えば心はますます乱れ、心が乱れるにつれて、乱脈打つ胸中に迷いの雲はますます広がって、果ては狂気のごとく落ち着きませんでした、戦時でもないのに弓を引く音、剣戟([刀剣による戦い])の声に心の中は混沌([不分明である状態])として落ち着こうと努力しても、心は糸でなければ見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえませんでした、命の陰に隠れるようにうずくまる一途な恋は、玉の緒([玉を貫き通した細ひも。短いことのたとえ])でもなければ断つこともままなりませんでした。
(続く)