ややありて「誰かある」と呼ぶ声す、あなたある廊下の妻戸を開けておもむろに出で来たりたる立烏帽子に布衣着たる侍は斎藤滝口なり。「時頼参りて候ふ」と申し上ぐれば、やがて一間を出で立ち給ふ小松殿、身には山藍色の形木を摺りたる白布の服を纏ひ、手には水晶の数珠を掛け、ありしにも似ず窶れ給ひし御顔に笑みを含み、「珍しや滝口、この程より病気の由にて予が熊野参籠の折りより見えざりしが、わづかの間に痛く痩せ衰へしそなたが顔かたち、日頃鬼とも組まんず勇士の身内の敵には勝たれぬよな、病ひは癒えしか」。滝口はややしばし、詰と御顔を見上げ居たりしが、「久しく御前に遠ざかりたれば、余りの御懐かしさに病余の身をも顧みず、先刻遠侍に伺候致せしが、幸ひにして御拝顔の折りを得て、時頼身にとりて恐悦の至りに候ふ」。言ふとそのまま御前に打ち伏し、濡れ羽の鬢に小波を打たせて悲愁の様子、ただならず見えけり。
しばらくして「誰かおるか」と呼ぶ声がしました、遠くの廊下の妻戸([引き戸])を開けて急ぎやって来たのは立て烏帽子に布衣を着た侍は斎藤滝口(時頼)でした。「時頼が参りました」と申し上げると、やがて小松殿(平重盛)は一間から出て来ました。身には山藍色([山藍=トウダイグサ科で染めた色。青色])の形木([文様])を摺った白布の衣を纏い、手には水晶の数珠を掛け、かつての姿とはうって変わってやつれた顔に笑みを含み、「珍しいの滝口よ、このほどは病気ということでわしの熊野参籠よりこの方見かけなかったが、わずかの間にいたく痩せ衰えたそなたの顔かたち、日頃鬼とも戦わん勇士も己の敵には勝てないものよ、病いは癒えたのか」と言いました。時頼はしばらく、じっと重盛の顔を見上げていましたが、「長い間御前から遠ざかっておりましたが、余りの懐かしさに病後の身を顧みず、近頃より遠侍([警護の武士の詰め所])に参っております、幸いにして拝顔の機会を得て、時頼の身にとりまして恐悦([相手の好意などを、もったいなく思って喜ぶこと])の至りでございます」と答えました。時頼は言うとそのまま重盛の御前に伏しましたが、黒い鬢に小波打ったその悲しみは、ただならぬように見えました。
(続く)