「さるにても幾千代重ねん殿が御代なるに、などさることの候はんや」。
「否とよ時頼、朝の露よりもなほ空なる人の身の、いつ消えんとも測り難し。我かくてだに在らんには思ふ隙さへ中々に定かならざるに、いかで年月の後の事を思ひはからんや。我もしともかくもならん後には、心に懸かるはただただ少将が身の上、元来孱弱の性質、加ふるに幼きより詩歌数寄の道に心を寄せ、管弦舞楽の楽しみの外には、弓矢の誉れあるを知らず。そなたも見つらん、去んぬる春の花見の宴に、一門の面目と讃へられて、舞妓、白拍子にも比すべからん己が技をば、さも誇り顔に見えしは、親の身の中々に恥しかりし。一旦事あらば妻子の愛、浮世の望みに惹かされて、いかなる未練の最期を遂ぐるやも測られず。世の盛衰は是非もなし、平家の嫡流として卑怯の振る舞ひなどあらんには、祖先累代の恥辱この上あるべからず。維盛が行く末守りくれよ、時頼、これぞ小松が一期の頼みなるぞ」。
時頼「それにいたしましても永く続くでありましょう殿(平重盛)の代でございますのに、どうしてそのようなことをおっしゃられます」。
重盛「そうではないぞ時頼(斎藤時頼)よ、朝露よりもはかないのが人の身よ、いつ消えるのかわからないものだ。わしのことさえいつまで世にあるとも定かに知る術もないのに、どうしてわし亡き後のことが分かるというのだ。わしがいかにもならん後に、心配するのはただ少将(平維盛。重盛の嫡男)の身の上ばかりぞ、元来孱弱([弱々しいこと])の上、加えて幼いころより詩歌など風流ばかり好み、管弦舞楽のほかに、弓矢の誉れがあるとも知らぬ。お主も見たであろう、去る春の花見の宴で、平家一門の名誉とたたえられて、舞妓、白拍子([平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞を舞う遊女])にも比べるほどの己の技を、さも得意げに舞ったのは、親の身としてとても恥ずかしいことであった。一旦乱が起これば、妻子の愛、浮世の楽しみに惹かれて、どれほど無残な最期をとげるかも分からぬと思うておるのだ。世の盛衰は仕方のないことだが、平家の嫡流として卑怯な振る舞いなどあれば、先祖累代のこの上ない恥辱となろう。維盛の行く末を守ってほしいのだ、時頼よ、これが小松(重盛)の一生の頼みぞ」。
(続く)