月は照れども心の闇に夢とも現とも思えず、行方も知らず歩み来りしが、ふと頭を上ぐれば、こはいかに身はいつの間にか御所の裏手、中宮の御殿のほとりにぞ立てりける。この春より来慣れたる道なればにや、思はぬ方に迷ひ来りしものかなと、つれなかりし人に通ひたる昔忍ばれて、築垣の下に我知らずたたずみける。折りから傍らなる小門の陰にて「横笛」と言ふ声するに心付き、思はず振り向けば、立烏帽子に狩衣着たる一個の侍のこなたに背を向けたるが、年の頃五十計りなる老女と額を合わせて囁けるなり。
月は照っていましたが心の闇の中を夢とも現とも思えず、時頼(斎藤時頼)は行方も知らず歩いていました、ふと顔を上げると、どうしたことかいつの間にか御所の裏手、中宮(平清盛の娘、徳子)の御殿のほとりに立っていました。この春より来慣れた道でしたので、思わず迷い来たのかと、つれない人(横笛)の許に通っていた頃を思い出して、築垣([土塀])の下に立っていました。ちょうどその時近くの小門の陰から「横笛」と言う声がするのに気付いて、時頼が思わず振り向けば、立烏帽子に狩衣を着た一人の侍がこちらに背を向けて、年の頃五十ばかりの老女と顔を合わせてひそひそ話していました。
(続く)