後の日を約して小走りに帰り行く男の影をつくづく見送りて、滝口は枯れ木の如く立ちすくみ、いづこともなく見詰むる目の光ただならず。「二郎、二郎とは何人ならん」。独りごちつつ首傾けてしばし思案の様なりしが、たちまち眉上がり眼鋭く「さては」とばかり、面色見る見る変はりて握り詰めし拳ぶるぶる震ひぬ。何に驚きてか、垣根の虫、はたと泣き止みて、空に時雨るる落ち葉散る響きだにせず。ややありて滝口、顔色和らぎて握りし拳も自ら緩み、ただただ吐息のみ深し。「何事も今の身には還らぬ夢の、恨みもなし。友を売り人を詐る末の世と思へば、我がために善智識ぞや、真なき人を恋ひしも憂き世の習ひと思へば少しも腹立たず」。
後の日を約束し小走りに帰り行く男の影をじっと見送って、滝口(斉藤時頼)は枯れ木のように立ちすくみ、どこを見つめるのか目の輝きは尋常ではありませんでした。「二郎、二郎とは誰のことだろう」。独り言を言いながら滝口はしばらく考えているようでしたが、たちまちに眉は上がり目は鋭くなって「さては」とばかり、顔色は見る見るうちに変わって握りしめたこぶしはぶるぶると震えていました。何に驚いたのか、垣根の虫は、ぱったりと鳴き止んで、空から降る時雨に落ちる落ち葉の音さえしませんでした。しばらくして滝口は、顔色もやわらいで握りしめた拳も緩み、ただただ深く吐息をつきました。「何事も今の身には還らない夢であれば、恨みにも思うまい。友を売り人を偽る末の世と思えば、わたしには善智識([人を仏道へ導く機縁となるもの])だったということか、想いを寄せることもない人に恋したのも憂き世の習いと思えば少しの腹も立たない」とつぶやきました。
(続く)