右兵衛佐が旗揚げに、草木と共に靡きし関八州、心ある者は今さらとも思はぬに、大庭の三郎が早馬き来て、夢かと驚きし平家の殿ばらこそ不覚なれ。討つ手の大将、三位中将維盛卿、赤地の錦の直垂に萌黄匂ひの鎧はあつぱれ平門公子の容儀に風雅の銘を打つたれども、富士川の水鳥に立つ足もなき十万騎は、関東武士の笑ひのみにあらず。前の非を悟りて旧都に帰り、さては奈良炎上の無道に余憤を漏らせども、源氏の勢ひは日に加はるばかり、おぼつかなき行く末を夢に見てその年も打ち過ぎつ。治承五年の春を迎ふれば、世いよいよ乱れ、都に程なき信濃には、木曽の次郎が兵を起こして、兵衛佐と相応じてその勢ひ破竹の如し。傾危の際、老いても一門の支柱となれる入道相国は折から怪しき病ひに死し、一門狼狽してなす所を知らず。墨俣の戦ひに少しく会稽の恥をすすぎたれども、新中納言軍機を失して必勝の機を外し、木曽の抑へと頼みし城の四郎が北陸の勇を挙りし四万余騎、余五将軍の遺武を負ひながら、横田河原の一戦に脆くも敗れしに驚きて、今はとて平家最後の力を尽くして北に打ち向かひし十五万余騎、一門の存亡を賭せし倶梨迦羅、篠原の二戦に、哀れや残り少なに打ちなされ、背傷抱へて、すごすご都に帰り来れし、打ち漏らされの見苦しさ。木曽はいよいよ勢ひに乗りて、明日にも都に押し寄せんず風評、平家の人々は今は居ながら生ける心地もなく、さりとて敵に向かつて死する力もなし。木曽をだに支え得ざるに、関東の頼朝来らば如何にすべき、あるひは都を枕にして討ち死にすべしと言へば、あるひは西海に走つて再挙を計るべしと説き、一門の評議まちまちにして定まらず。前には邦家の急に当たりながら、後ろには人心の赴く所一つならず、いづれ変はらぬ亡国の末路なりけり。
右兵衛佐(源頼朝)が旗揚げ([戦を起こすこと])すると、草木が靡くように関八州([相模・武蔵むさし・安房・上総・下総・常陸・上野・下野])の者たちは皆源氏に従いました、心ある者は目新しいこととも思いませんでしたが、大庭三郎(大庭景親)が早馬で都に伝えたので、夢かと驚く平家の殿たちこそ愚かでした。平家を討つために大将として、三位中将維盛卿(平維盛。重盛の嫡男)が、赤地の錦の直垂([鎧の下に着る着物])に萌黄匂([青黄色で下に向かって色薄くなったもの])の鎧を着てさすが平門の公子([貴族の子弟])の容儀([姿])で風雅([趣き])さえ感じられました、平家十万騎は富士川の水鳥が飛び立つ音に驚いて戦わずして逃げ出して、関東武士の笑いを誘うばかりではありませんでした。平家は前非([昔の悪事])を知って旧都(京)に帰り、奈良を焼き払う無道([非道])によって余憤([おさまらず残っている怒り])を静めましたが、源氏の勢いは日が経つにつれ増すばかり、平家の者たちは不安を募らせながら年は過ぎて行きました。治承五年(1181)の春を迎えると、世の中はますます乱れて、都からほど近い信濃(今の長野県)では、木曽次郎(木曽義仲=源義仲)が兵を起こして、兵衛佐(源頼朝)とともに源氏の勢いは止まるところを知りませんでした。この傾危([傾いて危ないこと])の際に、たとえ老いても平家一門の支柱となる入道相国(平清盛)はちょうどその時不思議な病気で亡くなり、平家一門はうろたえてどうしてよいかわかりませんでした。墨俣川の戦い(1181)で少しは会稽の恥([敗戦の恥辱])をすすいだものの、新中納言(平知盛。清盛の四男)が勝機を逃すと、木曽(義仲)を討つために城四郎(城長茂)も北陸の勇士を集めて四万騎余りで、余五将軍(平維茂。城氏の先祖)の遺武([その人の死後に残る武威])を有しながら、横田河原の戦い(1181)にあっけなく敗れて平家の者たちを驚かせました、こうなっては平家最後の力を尽くして北に向かった十五万騎余りが、平家一門の存亡をかけることになりましたが倶利伽羅峠の戦い(1183。倶利伽羅峠=富山・石川県境にある峠)、篠原の戦い(1183。今の石川県加賀市篠原町)の二戦で、無惨にも残り少なく討たれて、背傷([逃げる時に背後から敵に切りつけられた傷])を負って、すごすごと都に帰ってきたのでした、木曽(義仲)はますます勢いに乗って、明日にも都に押し寄せるとの噂が立つと、平家の者たちは居ながらにして生きた心地もせず、だからといって敵に向かって死ぬ力も残っていませんでした。木曽(義仲)さえも塞ぎきれないところに、関東の頼朝(源頼朝)が攻めて来たらどうすればよいのか、ある者は都で討ち死にすべきだと言えば、ある者は西海に逃れて再挙([再起を計ること])を計るべきと話し、平家の評議([協議])はまちまちで定まりませんでした。邦家([国家])の一大事にも関わらず、平家の者たちの思いは一つにまとまることはありませんでした、結局のところ何も変わることのない亡国の末路でした。
(続く)